「国の借金」について考えてみるシリーズの最終回です。今回は「国債発行は将来世代へのツケ」という誤解について説明していきます。コロナ危機で行われた巨額の財政出動やその財源確保のために行われた大量の国債発行によって将来長きに渡って国民は多額の借金を背負い苦しみ続けないといけないというのは「違いますよ」という話です。前回の記事『「国の借金」について考えてみる その3 「税は財源ではない」は本当か?』とは逆のことを言っているように捉えられるかも知れません。

 

 

このシリーズは私たち民間が生産したモノやサービスを主役とする経済的観点を持つことで、お金や国債、国家財政問題の見方が変わるということを伝えるために書いています。私は経済学を”ものがたり”の学問だと思っています。”もの”とは人である”者”とその人がつくりあげ、大切につかっている”物”であり、その動きの法則性を捉えて語っていくのが経済学なのです。このことを説明するのに長く時間をかけましたが、それは今回お話する経済学者のポール・サミュエルソンの財政観について理解する上で必要だったからです。

ポール・サミュエルソン

 

サミュエルソンは先日このブログでも紹介しましたフランク・ナイトらをはじめとするシカゴ大学経済学部で広がり、ミクロ経済的手法で社会分析を行っていたシカゴ学派に属していた経済学者です。ついでに言いますとシカゴ学派の第二世代の代表格として有名なのがミルトン・フリードマンでした。サミュエルソンは過去の経済理論を数学的手法で説き直し、それを自身が書いた教科書「経済学」で著します。サミュエルソンの「経済学」はかつて世界一のベストセラーとなった経済学の教科書でした。日本でも都留重人が翻訳し岩波書店で発刊されています。経済学者の野口旭さんも学生時代にサミュエルソンの「経済学」を読んでおられました。そのことについて触れている野口さんの記事をリンクしておきましょう。

 

ニュースウィーク 野口旭「ケイザイを読み解く」

財政負担問題はなぜ誤解され続けるのか

 


増税があらゆる世代の負担を拡大させる理由

 

 

社会は新型コロナ対策の負担をどう分かち合うのか 」

 

 

以上の野口さんの記事ですが、いずれも戦争や深刻な経済危機、そして今回のコロナ危機で巨額の国債を発行し、それを財源に大型の財政出動をやったとしても、国債が国内消化でさらには不完全雇用下で金利上昇による民間投資のクラウドアウトが生じない限り、それが「将来世代へのツケ」として孫の代まで負担として遺るわけではないですよという話です。「太平洋戦争中に日本の軍部が作った膨大な負債によって日本は悪性インフレに苦しめられたではないか?」と思う人が出てきそうですが、ではこの負債が何十年以上も私たち日本国民の負担として苦しめ続けたのかというとそうではないでしょう。

 

国債を外国人に買ってもらった場合は将来世代へのツケとして負担が遺り続ける場合があります。日本ですと日露戦争の戦費がそうでした。当時日本政府は経済力が弱く国内資金が不足していたためにイギリス銀行団とユダヤ人銀行家ジェイコブシフなどから戦費を借りています。1905年に戦争が終結してから1986年まで80年以上もかけて負債を償還しました。外債の場合は将来世代が自分たちがモノヤサービスを買う消費を削減し、それを外債の償還に充てないといけないからです。

 

国内で国債を消化した場合、貸し手・借り手も同じ同国民です。赤字国債は国内債でもやはり将来の増税によって償還が進められますが、子どもたちや孫の世代は支払いを受ける債権者でもあるのです。つまりは国内において同国民ならびに企業、政府といった各主体間でモノやサービスの保有者が移動したり、所得分配の流れが変わるだけのことです。日本で生産されたモノやサービスといった実物財が海外へどんどん流出し続けるとか、稼いだお金をどんどん外国人に還し続けないといけないなどということはないのです。将来世代をすべてひとまとまりにして考えた場合には、より豊かになっているわけでも貧しくなっているわけでもないことになります。

 

野口旭さんの「社会は新型コロナ対策の負担をどう分かち合うのか 」という記事の3ページにサミュエルソンの戦時赤字国債に関する説明の要約が記されていますので引用しましょう。

サミュエルソンは、戦時費用のすべてが増税ではなく赤字国債の発行によって賄われるという極端なケースにおいてさえ、その負担は基本的に将来世代ではなく現世代が負うしかないことを指摘する。というのは、戦争のためには大砲や弾薬が必要であるが、それを将来世代に生産させてタイムマシーンで現在に持ってくることはできないからである。その大砲や弾薬を得るためには、現世代が消費を削減し、消費財の生産に用いられていた資源を大砲や弾薬の生産に転用する以外にはない。将来世代への負担転嫁が可能なのは、大砲や弾薬の生産が消費の削減によってではなく「資本ストックの食い潰し」によって可能な場合に限られるのである。

 

太平洋戦争当時の日本についても、当時の軍部は税収だけでは戦費の調達ができず、国民に貯蓄の励行を求めると共に、戦時国債を発行して国民に買わせたりもしました。国債日銀引受も行っています。

一般ではこのとき膨らませた巨額の財政赤字と国債で戦後悪性インフレをもたらし、国民生活を窮乏させたと捉えられていますが、国民の貧窮は悪性インフレによって生じたものでしょうか?当時は食糧である米が手に入らず、すいとんやら芋で飢えをしのぎ、衣服などの生活物資も決定的に不足していた有様でした。農家の男手が徴兵によって奪われ米やら野菜の生産が滞り、B29による空襲で工場地帯が焼け野原にされてモノやサービスの生産・供給が圧倒的に不足していました。都市に住んでいる人たちは農村まで鮨詰めの買い出し列車に乗って農家に頭を下げて農作物を分けてもらっていました。

戦時中から国は国民に食糧の配給も行っていましたが、それだけでは足りないので闇市でものすごく高い商品を買わざるえなかったのです。圧倒的なモノ不足状態でお金よりも米とか野菜、衣服の方が貴重品でした。

 

日本政府は戦時国債を国民に買わせたり、外地で現地の人たちに軍票をばら撒いて、終戦後それを紙屑にしてしまったわけですが、国民のお金を奪っただけではありません。国家は国民が持っていた様々なモノや労働力を国債を買わせたり、金属物を徴収したり、徴兵というかたちで労働力を奪っていったのです。また本来民間が必要とするモノやサービスの生産を行うための民間投資に遣われるお金が戦費に回されました。クラウドアウトです。

政府が国民に対して「御国のために好きなものを買うのを我慢して貯蓄をして国債を買いなさい」と押し付けることで、国民から経済的自由を奪いました。国債を買わなければ好きなものを買えたのです。国債というかたちで国が巻き上げたお金が戦車や軍艦、飛行機、鉄砲の弾と化し。空費されてしまいました。戦時中の乱暴な国債発行や悪性インフレを批判する人は多いですが「国家による国民からの”もの”の収奪」という観点でそれが語られることはあまりありません、

 

戦争による食糧難や物資難というかたちで押し付けられた国の負債のツケを背負わされたのは当時の国民でした。野坂昭如さんの小説「火垂るの墓」を読んで、豊富なものに囲まれた現代のわたしたちが「節子ちゃんが可哀想」だからといって、タイムマシーンに乗って終戦後までタイムスリップし食べ物を与えることができるでしょうか?できませんよね。

あるいは「戦国自衛隊」とかかわぐちかいじさんの「ジパング」みたいに戦国時代とか太平洋戦争時代にタイムスリップして戦車とか最新の自衛艦を送り込むことってできますでしょうか?ありえませんよね。わたしたち現代人は過去の世代の人たちに代わって負担を背負ってあげたくてもできません。

 

野口旭さんの要約で書かれた「サミュエルソンは、戦時費用のすべてが増税ではなく赤字国債の発行によって賄われるという極端なケースにおいてさえ、その負担は基本的に将来世代ではなく現世代が負うしかない」というのはこういうことです。戦争のコスト負担を負わされたのは将来世代である私たちではなく、戦時下当時に生きた人たちなのです。

 

前回までの私の解説でお金は「自分が持っているものをあなたに譲ります」という約束手形みたいなものだと言ってきました。コロナ対策で安倍政権は10万円の現金給付を行いましたが、これは政府が10万円を受け取った私たち国民に対し「みなさんがほしいモノとかサービスに交換します」という約束手形を配ったようなものです。政府はモノやサービスを生産した側の人や将来世代という債権者に対しても対価を支払いますという約束をしたことになります。今回の給付金はある国民が生産したモノやサービスといった実物財を、別の国民に再分配しただけの話です。いまを生きるわたしたち、そして将来世代という債権者たちが約束どおり好きなモノやサービスを貰い続けることができるならば何の問題もありません。

 

サミュエルソンやアバ・ラーナー、野口さんが仰る真の「将来世代の負担増加」とは不況下の増税や歳出抑制などといった誤った経済政策によって民間の投資が抑制されてしまい、十分な生産と所得が得られない状態となってしまうことです。

「将来世代に政府の財政赤字を遺してはいけない」といって現世代から税徴収や歳出抑制をすれば次の若い世代が負う税負担が多少減ることでしょう。しかしそれによって民間のモノやサービスの生産・消費が萎縮して、生産と所得それ自体が減ってしまえば、逆に将来の若い世代は貧しく苦しい生活を強いられることになります。

 

前の記事でも引用しましたが、立憲民主党に所属していたものの党離脱を決めた須藤元気議員の会見を聞いて「これこそが過去の経済失策のツケではないか」と私は思いました。

 

須藤氏の会見発言

 「悔しいんですよね。やっぱ政治の、政治の失敗で僕らが犠牲になってるじゃないですか。悔しいですよ。ちっちゃいころから日本は何百兆円借金があるとか、そのためには我慢しなきゃいけないとか、この30年間ずっと我慢してきたんですよ。何がプライマリーバランスだ、と思うわけですよ。もう十分我慢しましたよ。今、僕らロストジェネレーションが立ち上がらないで、いつ立ち上がるんですか。なんで上の言うこと聞かなきゃいけないんですか。十分言うこと聞いてきましたよ。僕は…

 
1990年代に日銀の三重野康総裁がいきなり政策金利を上げて金融引き締めを行い民間企業の投資を冷え込ませ、雇用が悪化。さらに1997年の消費税率7%増税や橋本龍太郎政権下での緊縮財政で景気が再悪化し、雇用と所得の不安定化で慢性的なデフレと流動性の罠を発生させました。ちょうどこのとき就職時期と結婚適齢期を迎えていた団塊ジュニア世代が就職氷河期を迎えてしまいロスジェネ化します。これが元で少子高齢化社会に滑車をかけてしまい、後の現役世代の負担を増やすことになります。所得が増加しないのに高齢世代を支える負担が重くなるばかり・・・・・とんでもない「将来世代への負担」でしたね。
 
多くの人々は「将来世代の負担」というと政府の累積債務の方にしか関心を向けませんが、もっと大事なのはこれまで豊かな日本を支え続けた”ものづくり”の技術や生産設備といった資産を潰さず、次の世代に引き継いでいくことです。日本の”ものづくり”の技術や生産設備がしっかり守られているならば、わたしたちの暮らしはちゃんと維持できるのですから。
 

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