前回の記事で「次回も経済学者ポール・サミュエルソンについて取り上げながら、この話の続きをするつもりです。」と予告しましたが、予定を変更して一部で広まっている「税は財源ではない」というとんでもない誤解について取り上げます。

 

前回記事

 

これまで私は反緊縮的な主張をずっと続けており、今回のコロナ危機でも国債の発行で大型の財政出動を行うべきだとか、日銀による国債やリスクの高い債券、あるいは地方債の買受を積極的に進めるべきだと申し上げてきました。今の非常時において財政規律のことしか目を向けず、民間経済を見殺しにするような狭視野的な発想は逆に国力を衰退させ、余計財政赤字の膨張を招きかねないからです。

 

国家財政を支えるのも結局は民間経済です。民間の企業や個人がモノやサービスの生産を行って国に税を支払うことで国家財政という大きな神輿が担がれているのです。民間経済を見殺しにして国家財政の規律ばかりを重んじるような発想は国家社会主義的なものです。菅原文太さんが主演していた「仁義なき戦い」で松方弘樹さんが金子信夫さんが演ずる卑怯な山守の親分に「神輿が勝手に歩けるものなら歩いてみいや!」と啖呵を切るシーンがありましたが、財務省の官僚らは「オレたちが日本の経済を動かしているのだ」と思い上がっているようです。この国は社会主義国家ではありません。

 

コロナ感染拡大危機の中で売り上げ急減し、固定費の支払いに苦しむ民間事業者への休業補償や賃金収入の激減や突然の解雇で家計が苦しくなった個人への現金給付といった大型の財政出動の財源は(長期)国債から調達しればいいことですし、2~3年内に増税しないと国家財政が破綻してしまうといったようなことにはなりません。いまの政策金利はマイナスに至るほどの超低金利であり、日銀が行ったYCC(イールドカーブコントロール)で長期の金利も低く抑えられています。さらには政府が発行した国債を日銀がどんどん買い受けてしまいますから、政府+日銀という統合政府でみたとき、民間に対する負債は少なくなっています。いまの日本の国債は日銀が4割以上を買い支えているのです。

 

国の借金について考えてみる その1 国債の状況を知る

 

 

 

今のコロナ危機で行われた大型の財政出動はこれまで国民が支払った税を政府が貯め込んで放出したというわけではないのです。日本だけではありません。アメリカなど他国もそうです。国債で財源を調達しています。企業の投資と同じでスペンディングファーストです。先に資金を投じてあとから売り上げで元手を回収するのです。

また東日本大震災後の復興税のように直後に増税して復興財政を回収するという愚策を繰り返してはいけません。長期国債で国民負担を各世代に薄めて分散すべきなのです。「ひょっとしたらコロナ増税が?」という懸念が出てきていますが、それを許すべきではないでしょう。

 

ここまで話をするとやはり「税は財源ではない」でいいのではないかと思われるかも知れませんが、私はそのことをきっぱり否定します。国債発行や通貨発行権は打ち出の小槌ではありません。極端な話ですが、日本国内の生産力や供給力を無視して負債やお金を濫発し続ければ当然のことながら財政破綻や深刻なインフレを招きます。

私の場合はあくまで日本の民間の生産・供給力の高さや統合政府バランスシートで見た債務状況を鑑みて、まだ政府が新たな国債を発行することができるし、財政破綻リスクも高くないと主張しているだけです。企業の投資ですとリターンすなわちハーベスト(収穫)が期待できない事業に対してそれを行うことはないでしょう。企業が社債や銀行から資金を借り入れてまで投資するのはそれを超える収益が期待できるからです。国家もそれと変わりはありません。民間企業に比べはるかに永続性が高い国家の場合は何十年~100年以上にかけて負債を償還できる能力があるというだけです。

 

お金の発祥についてや信用創造について知っている人ですと、お金というものはもともと借金の証文や約束手形みたいなもので、ツケ払いと同じであるということをご存知かと思います。信用創造とは銀行が誰かに元々金庫の中にないお金を貸し出すことで、結果的に新たなお金を産み出してしまうという仕組みです。銀行家が万年筆で「これだけのお金を貸します」とサインするだけで産まれるお金、現代ではコンピューターのキーストロークを打ち込むだけで産まれるお金のことを信用貨幣といいます。

 

政府が発行した国債を日銀が日銀券を刷って買受をしてやると、そこで新しいお金が生まれます。

となってくると政府+日銀が新たにお金を刷って、それで財政出動をすれば国家財政悪化や増税を心配する必要なく政府は国民にお金をばら撒くことができるというわけです。一定以上のインフレが起きるまでお金を刷ってばら撒くことは可能です。ここまでならいいのですが、調子にのって「自分たちが税金を支払わくなくても国が国債をどんどん発行すればデフレが続く限り財政政策を続けることができる」とか「税が財源ではない」などと言い始め出すとトンデモになっていきます。無税国家とか永久機関という話になってきます。そうした勘違いをしてしまっている人たちがものすごく多くなってきました。

 

もう一度お金の発祥について振り返ってみたいと思います。

お金は農耕社会が萌芽した原始~古代の時代に農産物の収穫時期のズレを埋めるために生まれたとされます。例えばたぬきさんときつねさんがお互いにいま交換しあえるものを手許に用意できているならば物々交換が可能となりますが、たぬきさんが育てたぶどうをきつねさんがほしいけれども、交換すべききつねさんが育てたりんごがまだ収穫できていないときは「りんごが実ったらあげる」という約束を書いた証書をたぬきさんに渡して先にぶどうをもらうということをしないといけないわけです。その証書がお金となっていったのです。

もし仮にきつねさんが約束どおりにたぬきさんにりんごを渡すことをしなかったら、その証書は空手形となってしまいます。債務不履行(デフォルト)です。きつねさんは労働をしてりんごを育てていないのに、たぬきさんに「りんごをあげるからぶどうをちょうだい」などと言えないのです。

 

時代が下りクニが生まれると、王たちは宮殿やら都市の建造に携わった人足たち、戦争に加わってくれた兵士たちに銭を渡して報償するようなことをしはじめます。しかしその銭はまだ市場の商取引に遣える貨幣としての機能は持てませんでした。クニがその銭で租税するということをはじめてやっと貨幣として機能しはじめたのです。

 

MMTを提唱したひとりというべき大富豪のウォーレン・モズラーは自分の子供たちにお手伝いをしてくれたら名刺をあげるといったことをやっていました。最初は名刺をもらって喜んでいた子供たちもやがて飽きて名刺をもらうためにお手伝いをしなくなります。そこでウォーレンは子供たちに「月末までに、20枚名刺を提出できなければ、屋敷から出て行ってもらう」と宣告します。すると子供たちは必死にお手伝いをはじめ名刺をほしがるようになったのです。MMTerらが「貨幣は国が徴税手段だと認めたから機能する」と国定貨幣論を唱える理由はこれです。

 

自分はMMTに賛同しませんが、あえてその土俵にのってモズラーの名刺についての解釈を深めていきますと、国が新たな国債やら通貨を発行するのは徴税権という担保があるからできる、あるいは国内に国民に分配できるだけの実物財(モノやサービス)があるからできるということになってきます。コロナ危機で安倍政権は全国民に10万円の給付を行いましたが、それは10万円分に相当するモノとかサービスを国民のみなさんに提供できるだけの生産・供給力が日本にあるから国が代わって約束手形を配れたということです。

 

MMTerたちは「徴税はインフレ抑制の手段」などと言いますが、私は違うと思います。徴税はモノやサービスと貨幣の量のバランスを合わせるためのものだというのが私の解釈です。

 

ついでに言いますと、高橋洋一さんが政府と日銀を合わせた統合政府バランスシートを見せて、日本政府は国家財政破綻寸前には至っていないし、深刻な経済危機のときはヘリコプターマネーを実施することもできると説いておられました。ここで徴税権が出てきます。これを資産としてカウントすることで通貨発行益で新たなお金を刷って財政支出を増やすことが可能となるというわけです。徴税権を担保に国債や新しいお金を発行するという解釈が成り立ち、上のモズラーの名刺の話との整合性も出てきます。

 

 

先のたとえ話の繰り返しですが、きつねさんがりんごという実物財の生産を怠ったまま、たぬきさんに「りんごをあげる」という証書を渡せば手形詐欺みたいなものです。クニについても「自分が得た貢物(税)を分け与える」という約束を人足や兵士たちに果たさなければ報償としての銭の価値はなくなります。モズラーの子どもたちが名刺をただの紙切れだと思って欲しがらなくなると同じです。

 

 

今回のコロナ危機で全国民10万円給付が決まる前に自民党議員の一部から「お魚券」とか「お肉券」を出そうという動きがありましたが、仮に政府が「うなぎ券」みたいなものを発行したとしましょう。今年はまだシラスウナギが獲れた方ですが、近年漁獲高が激減してニホンウナギがレッドリスト入りしている状況です。にも関わらず政府が勝手にうなぎ券を全国民にバラ撒いたらどういうことになるでしょうか?勝川俊雄さんが激怒するような事態になります。

 

お金というものは常に自分がほしいと思えるものとかサービスに交換してもらえるという予想や期待があるからその価値があるのです。岩井克人教授のいう貨幣循環論法です。もし交換すべきものとかサービスが用意されてもいないのに貨幣だけどんどん刷ってしまえば予想や期待が崩れハイパーインフレとなってしまうのです。

 

あえてMMT的貨幣観に沿って考えてみても、実は「税は財源でない」という発想はかなりのトンデモだということになります。むしろ国民が自ら生産したモノやサービスに代わる貢物というべき税を後払いするという約束がないとお金は信用と価値を失ってしまうという解釈が出てきます。

 

とにかく実物財という裏付けや担保がないお金はただの紙切れ同然です。コロナ危機における積極的財政政策の規模も潜在GDP(供給力)とGDP(需要)の差を埋めるのに必要な額から算出していくべきだという考えです。

 

「税は財源ではない」?

いえ

「ノー・フリーランチ」

です。

 

 

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