“Nobody is right”は真偽が判定できる命題か? | メタメタの日
(ちょうど2年前の1月に書いた2つのアーティクルの改訂版です。5400字超)
 昨年秋,世情穏やかならざる時,宮崎あおいと少女たちが草原に立ち,Nobody is right と歌うテレビCMが話題になった。「争う人は正しさを説く 正しさ故の争いを説く その正しさは気分がいいか」,「寒いだろうね その一生は 軽蔑しか抱けない」と歌詞は続く。
 中島みゆきの2007年の作品です。http://miyuki-lab.jp/disco/lyric/ba464.shtml
 画面を見ながら,2年前,Nobodyについて考えたことを思い出したが,一昨日の日本数学協会の新春特別講義の後,月例読書会のメンバーに私の疑問を聞いてもらった。

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 発端は,野矢茂樹『論理学』(1994年,東京大学出版会)です。
 述語論理の論理的虚偽の例として,次の論理式が挙げられていました。(101頁)
   Fa∧¬∃xFx
 「「∧」と「¬」と「∃」の意味によって,そして「a」や「F」の意味を特定することなく,偽となる」とあります。
 「或る個体aが条件Fを満たすこと」と「条件Fを満たす個体が存在しないこと」とを同時に主張する命題が論理的に虚偽であることは納得できたのですが,では,「a」を‘nothing’とした場合はどうなのだろうと考えてしまったのです。
 中学の英語で,There is nothing in the room. という文を目にしたとき,へぇー,英語って,何も無いことを,「何も無い」がある,と言うんだと感心したことを思い出し,英語でこういう表現があるのなら,記号論理では‘nothing’の概念をどう扱うのか,ということが気になったのです。
‘nothing’(非在の物)について考えることはnothing(無意味)という結論になるにしろ,得るものはnothingではないというか,そういうことを考えてしまう業なわけです。
 西洋の昔話にnobodyが傷つけたという挿話があったことを思い出し,調べたら,ホメロスの『オデュッセイア』でした。
 トロイア戦争に勝利したオデュッセウスは,部下と共に帰国の海路につきます。しかし,ある島で一つ目の巨人ポリュペモスの洞窟に囚われます。オデュッセウスは,自分の名前は「ウーテイス」(nobody,誰もおらぬ)だと名乗り,姦計でポリュペモスの目を潰します。ポリュペモスの悲鳴を聞いて駆け付けた仲間の巨人たちにポリュペモスが洞窟の中から答えます。『ああ皆の衆,暴力ではなく,企みで俺を殺そうとしている奴はなあ,「誰もおらぬ」(の)だ。』(松平千秋訳,岩波文庫)
 それを聞いて仲間の巨人たちは,『独り住いのお前に暴力をふるった者が誰もおらぬとすれば,大神ゼウスが降す病いは避ける術がない,せいぜい父神ポセイダオンに祈るがよかろう。』と言って去ってしまいます。
 「俺を殺そうとしている奴は誰もおらぬ」の部分は,ある英訳本では次のようになっていました。‘Noman is killing me.’
 「ウーテイス」を‘Nobody’,‘No-one’と訳している本もありました。
 オデュッセウスは「ウーテイス(無人)が私を殺そうとしている」という文が,「誰も私を殺そうとしていない」という意味になる語法をトリックとして利用したわけですが,「名前のトリック」と「巨人(鬼)の眼つぶし」の民話は,ユーラシアから北アフリカに広く分布しているが,名前のトリックでは,名前を「自分自身」とするものが多く,「無人」とするものは,『オデュッセイア』の他には一,二の例しかなく,ホメロスの創案の可能性が高いという説もあります。(楜沢厚生『<無人>の誕生』1989年影書房。ホメロス創案説は,中務哲郎「『オデュッセイア』におけるポリュペモス譚について」西洋古典論集Ⅶ,1990年京都大学西洋古典研究会)ソフィスト(詭弁家)を生むようなギリシア人の論理癖が無人のトリックを生んだというのは納得できる話です。

 「F(x):xが私を殺そうとしている。」という関数は,「私」を巨人ポリュペモスとし,xにオデュッセウスを代入すれば,「F(オデュッセウス):オデュッセウスが私(ポリュペモス)を殺そうとしている。」という命題となり,この命題は「真」です。
オデュッセウスがウーテイス(Nobody)と名乗っても,Nobodyがオデュッセウスという,ある(在る,或る)人物(存在する特定の人物)を指すことが了解されているのなら,
 「F(Nobody): Nobodyが私を殺そうとしている。」という命題も真です。
 しかし,F(Nobody)を,「¬∃xF(x)」の意味で解釈する場合は,F(Nobody)という命題は,起きている事態に対しては虚偽になります。しかし,洞窟に駆け付けた巨人たちは,「Nobodyが私を殺そうとしている」を「誰も私を殺そうとしていない」と解釈したわけです。巨人たちの解釈は,Nobodyの日常言語の使い方としては間違っていない。
 つまり,Fa∧¬∃xFx のaをNobodyとした,F(Nobody)∧¬∃xFx の論理式において,“∧”の左と右は同じ意味になるから矛盾しない,と言いたくなります。
 しかし, Fa∧¬∃xFx という論理式が「論理的虚偽」であることも否定できない。ということは,「a」を‘Nobody’と置き換えてはいけない,つまり,‘Nobody’は「定項a」となる「個体」あるいは「事物」ではない,ということになります。
 検討していただいた結論はそうなりましたし,2年前に私もそう考えもしたのですが,まだ釈然としないものが残るのです。
‘Nobody’は「個体」あるいは「事物」ではない,としたら,‘Nobody’とは何か? 「個体」「事物」とは何か?

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 デデキントは,『数とは何か,そして何であるべきか』(初版1888年)の冒頭で,
「事物とは我々の思考の対象と成る全てのものの事とする。事物について話しやすくするために,それらを,記号,たとえばアルファベットで表す事にして,手短に,事物a,あるいは単にaについて述べる事にする。」(渕野昌訳,ちくま学芸文庫)と述べています。
 本文はドイツ語ですから,「事物」の原語は‘Ding’です。英語なら‘thing’でしょうが,どちらにしろ,日本語のように「こと」と「もの」を弁別する語ではないようで,廣松渉を読んで『「物(もの)的世界像」から「事(こと)的世界観」へ』に納得してきた者としては戸惑い(正直に言うと粗雑感)を感じるところです。
 しかし,目下の問題は‘thing’ではなく‘Nobody’の方です。
 自然言語で事物について語るときは,その「事物」は名辞として語られるでしょう。だから,‘Nobody’を「事物」とみなさないということは,‘Nobody’は名辞ではなく否定辞扱いなのでしょう。
 英語では否定表現をするときは,動詞を否定する場合と名詞に否定語を付ける場合とがあるとあります。(『ライトハウス和英辞典』1179頁,研究社1984年)
 漢字では,否定語「不」「非」「無」を付けた語(不良,非才,無人,無責任…)は,物や事を表しているはずですから,英語でも,否定語(no)を付けた語は,事物を表わしていると思ってしまいます。しかし,英語を母語として育った人は,noを付けた語を事物とみることに違和感があるようです。
 ウィトゲンシュタインは,『青色本』の中で次のようにコメントしています。
「『その部屋には誰もいなかった』の代りに,『その部屋には,無人氏がいた』と言う言語を想像してほしい。そのような規約から生じうる哲学的問題を想像してほしい。この言語で育ってきた哲学者の中には,恐らく「無人氏」と「スミス氏」という表現の間の類似性が気にくわぬと感じる人もいよう。」(大森荘蔵訳,『ウィトゲンシュタイン全集6』123頁,大修館書店)
『その部屋には誰もいなかった』の原文は,‘I found nobody in the room.’(1)
『その部屋には,無人氏がいた』の原文は,‘I found Mr Nobody in the room.’(2)
 ウィトゲンシュタインは,(1)の意味で(2)のような表現をする言語を想像し,その中で育った哲学者の抱く,‘Mr Nobody’と‘Mr Smith’の表現の間の類似性への違和感について述べているわけですが,日本語で育った者からみると,‘I didn’t find anybody in the room.’ の意味で(1)の表現をする言語で育ったウィトゲンシュタインに,‘nobody’と‘Mr Smith’の表現の間の類似性に対しては違和感がないのだろうかと,そのことの方に違和感があります。
 しかし,名詞に否定語を付けて否定表現をする英語では,否定語を付けた名詞は,もはや「事物」を表さず,したがって「名辞」ではなく,「否定辞」とされるようです。したがって,否定辞noを付けたnobodyは,命題関数Fxにおいて,「(個体)変項」xの値となる「(個体)定項」ではないことになります。

 ここまでをまとめると,・・・
 論理式「Fa∧¬∃xFx」は,「或る個体aが条件Fを満たすこと」と「条件Fを満たす個体が存在しないこと」とを同時に主張する命題であり,論理的に虚偽である。(野矢茂樹『論理学』101頁参照)
 この論理式の個体定項aをnothingで置き換えることはできない。なぜなら,nothingという語は「否定辞」であり,個体定項になる事物を表す「名辞」ではないからです。しかし,形式上は,nothingは名辞の位置に置かれるから,nothingを,「thingがない事」,「thingでない物」という「事物」(thing)として理解(誤解)する可能性は皆無ではない。
・・・となります。

   ***

 英語版Wikipediaで‘Empty set’を検索したら,最後の「哲学的な論点」Philosophical issuesの項で,nothingの両義性を利用した「人気の三段論法」が紹介されていた。https://www.wikiwand.com/en/Empty_set

 Nothing is better than eternal happiness;
 a ham sandwich is better than nothing;
 therefore, a ham sandwich is better than eternal happiness.

 「永遠の幸福より善きものは皆無である。
  皆無よりハムサンド1個は善きものである。
  ゆえに,永遠の幸福よりハムサンド1個は善きものである。」

 しかし,数分で食べ終わる1個のハムサンドイッチが,永遠に続く幸福より善きものであるわけはないから,この三段論法の結論は誤っている。
 どこで誤りが生じたのか。

 大前提:Nothing is better than eternal happiness. も,
 小前提:A ham sandwich is better than nothing. も,
単独の命題としては正しい。
 誤りが生じた原因は,大前提にあるNothingと小前提にあるnothingを等しいものとして,推移律を適用して結論を導いたことである。
 大前提のNothingは「何も無い」という否定辞であり,事物ではない。
 しかし,小前提のnothingは「何も無いこと」という事物(名辞)である。
 したがって,
N >‘eternal happiness’
‘A ham sandwich’> n,
 しこうして,N≠nなのだから,推移律を適用して,‘A ham sandwich’>‘eternal happiness’を導くのは誤りである。このように,英語の語法からも,「人気の三段論法」の欺瞞を剔抉できるはずである。
 ところが,Wikipediaは,nothingの概念と空集合との関係から,「人気の三段論法」の誤りを解明しようとする。
 大前提は次と同義であるという。
「永遠の幸福より良いすべての事物の集合には要素はない(空集合である)。」
"The set of all things that are better than eternal happiness is Ø."
 小前提は,次と同義であるという。
「ハムサンドイッチの集合は,空集合より良い」
"The set {ham sandwich} is better than the set Ø."

 Wikipediaは,「人気の三段論法」の直前に,空集合はnothingではなく,nothingを要素とする集合であり,集合というものはsomethingである,と述べている。
The empty set is not the same thing as nothing; rather, it is a set with nothing inside it and a set is always something.
 つまり,空集合について次のことを述べているようだ。
(ア) Ø ∋ nothing
(イ) Ø ={nothing}
 日本語で解釈すれば,(ア)は,「空集合の要素は無い」「空集合の要素は無である」ということであり,(イ)は,「空集合は要素が無い集合である」「空集合は要素が無の集合である」となるだろう。
 そして,Wikipediaは「人気の三段論法」の項の最後に次のように述べている。
「大前提は,集合の要素を比べているのであり,小前提は集合自体を比べているのである。」
 つまり,こういうことのようだ。
 大前提:{x|x is better than eternal happiness.} is {nothing}.
      x is nothing.
 小前提:{ham sandwich} is better than {nothing}.

 「人気の三段論法」の欺瞞を英語の語法から剔抉したとき,大前提の主語の位置にあるNothingは「無い」という否定辞だと述べたことは,集合論の観点からは,集合の要素がnothing(無い)ということであり,小前提のnothingは「無いこと」という事物(名辞)だと述べたことは,集合論では,{nothing}という集合(空集合)になるようだ。

 三浦俊彦さんの『論理サバイバル』(2003年,二見書房)にも「NOBODYのパラドクス」(85-87頁)があり,別ヴァージョンの「三段論法」が取り上げられ,上と同趣旨の解説があった。ただし,「否定辞」ではなく「文の否定を作る副詞」,「名辞」ではなく「独立した名詞」という用語が採用されている。
 末尾には『不思議の国のアリス』(作者は周知のようにオックスフォード大学の数学講師)の次の一節が紹介されていた。
Alice: I see nobody on the road.
King : I only wish I had such eyes, to be able to see nobody!

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 以上を踏まえると,冒頭の「“Nobody is right”は真偽が判定できる命題か?」の答えは次のようになるだろう。
 述語論理としては,Nobodyを定項とすると述語論理の体系が矛盾するので,「F(x):X is right.」の「x」に「Nobody」を代入した式は無意味である。(検討いただいた意見をこう理解しました。)
 しかし日常言語としては,“Nobody is right”の一文には意味がある(その場合は,F(Nobody)を「¬∃x F(x)」と解釈するわけです)が,その一文が真偽が判定できる命題か否かは「right」の定義によるだろうし,また真偽が判定できる命題だとしても“Nobody is right”が真か偽かの判断は分かれるでしょう。しかし,以下の聖書の記述からも,“Nobody is right”は真の命題としたい。
 ヨハネ福音書8章によると,姦淫した女性を石打ちの刑に処することを民衆がイエスに迫る。イエスは言う。「汝らの内,罪なき者,先ず石もて女を打て」“Whichever one of you has committed no sin may throw the first stone at her.”イエスが膝まづいて地面になにかを書いている内に民衆はいなくなり,女とイエスが取り残される。イエスが女に問う。“Where are they? Is there no one left to condemn you?”女が答える。“No one,sir.”イエスは自分もまた女を刑に処さないと言う。
 つまり,“There is nobody who has committed no sin.”は真の命題ということになり,“Nobody is right”も真となるでしょう。
 それを受けて中島みゆきは謳う,「正しさは 道具じゃない」。ここで論理が倫理と結びつく。