ab×c=abc だから? abc÷ab=c | メタメタの日
 「a÷bc」のように,÷の後に文字や数字が併置された式の解釈について,日本の教科書がどう記述してきたか(記述してこなかったか)について,前のアーティクルでみてきたのですが,本家本元の欧米がどう記してきたかが気になります。
 たとえば,小平邦彦監修の中学教科書『改訂新しい数学1』(東京書籍,1985年)65頁の,「(注意)a÷bcはa÷(b×c) の意味であって,a÷b×c ではない。」のルーツは,チャールス・スミス著,藤沢利喜太郎他訳の『代数学教科書』(三省堂,1890年)26頁の「a÷b÷c=a÷(bc)ナリa÷(bc)ノ代リニハ通例a÷bcト書ク」でしょう。
 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/828132
 スミス以外は何と言っているのでしょうか。

 藤沢利喜太郎(1861~1933年)は明治32年(1899年)の夏に中学校と師範学校の先生300人相手に「数学教授法」を講義し,翌年『数学教授法講義筆記』として刊行しています。
 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/811596)
 その第11回講義の後半(246頁以降)で,「我国における代数学の歴史およびスミスの代数書とトドハンターの代数書との比較」について述べています。
 自分(藤沢)が明治6年(1873)に英語と数学を習い始めた頃の代数の教科書はロビンソンの原書“University Algebra”だった。しかし,「随分ひどいもの」だったので,明治10年代にはトドハンターに変わった。これには菊池大麓が與って力があった。明治20年に自分が留学から帰ってきたところ,第一高等中学校の数学主任から「近頃英国にてスミスの代数ができたが,トドハンターの代数には飽きてきたから此れと換えてはどうか」と相談を受けた。それでトドハンターの本とスミスの本とを比べて見たが,「スミスの本は善くない本です。この本はトドハンターの代数とコーシーの昔の本との二つから抜き書きしたものであります。…スミスは数学者ではない,一つの論文もない。…トドハンターの本の方が遥かに善い」と言ったのに,どういう成り行きか,「スミスの時代となりました」。自分も「或る行き掛り上スミスの代数書を訳した」(明治23年)が,「これもスミスの跋扈を助けただろうと思います。」しかし,「如何なる本が代数を習うに最も善いかとの問を受くる毎に私は何時もトドハンターの代数書を推撰しました。」
 いやはや藤沢節全開の裏情報暴露です。

 で,藤沢の推薦によって,トドハンターの代数書を検索しました。国会図書館の近代デジタルライブラリーにあるトドハンターの代数学の日本語訳は,1点を除いて5点が“Algebra for Beginners”(1885年,増補版1897年)のものでした。
 除法については,次のようにあります。
「69(条) 一式を以って他式を除することを示すは,すでに10条に説明せり(引用者註:a÷bを説明)。即ち5aを2cにて除するときは其商は5a÷2c或は
5a

2c
を以って顕し(以下略)」(大塚秀松訳,1886年)
 これでは「5a÷2c」と書くことは分かるけれど何の説明もなく,スミスより不親切です。藤沢がトドハンターを推薦する理由が見えてきません。
 近デジには他に1点“Algebra for the Use of Colleges and Schools”(1870年)からの日本語訳(長沢亀之助訳,1883年)があったのですが,除法の最初の頁が欠落していて読めません。
 Googleブックスhttp://books.google.com/advanced_book_searchで検索して,欠落部分がわかりました。(23頁)



「 a×b=ab だから,ab÷a=b,ab÷b=a
 同様にして,a×bc=abc だから,abc÷a=bc,abc÷bc=a 」
ということでしょう。
 明快といえば単純明快ですが,これは「abc÷bc=a」の証明ではないでしょう。
 「見た目」的に,「a×bc=abc だから abc÷bc=a」と記号法のルールを約束する(決める)方が妥当だからそうする(実際ずっとそうなってきた)ことをトドハンターは説明したのでしょう。
 「見た目」では正誤が決まらないことは,例えば,
「a×b∙c=a∙b∙c だから a∙b∙c÷b∙c=a」
が成り立つように思えますが,アメリカの数学教科書(“Holt School Mathematics”Grade 8,1978年,138頁)には,
      8
8÷2・2=―・2=8 とあります。
       2
したがって,
        a∙b∙c
a∙b∙c÷b∙c=―――∙c=a∙c^2 です。
         b
 
 ひっきょう「見た目」は真偽を判定するヒントにはなっても,それだけでは証明にはならない。しかし,見た目の明快さは,明快な「ルール」を決める際には役に立つと言うことでしょう。