宮沢賢治 WHAT WAS KENJI MIYAZAWA ? | メタメタの日

(2,3年前につぶれた雑誌に書いた原稿)

 宮沢賢治が一九三三年(昭和八)に亡くなったとき、地元の「岩手日報」は「日本詩壇の輝しい巨星墜つ」という見出しを付けた。しかしそれは、地元紙の身びいきの褒詞だった。この記事ですら、賢治の享年を「二十八」と間違えている。正しくは「三十八」(満なら三十七)。賢治は、ほぼ無名のまま、数年間の病床生活を経て、挫折感の内に亡くなったのだ。
 死の十日前の手紙では、「なにかやろうとしては心持ばかりあせってつまずいてばかりゐる惨めな失敗」について、次のように自己分析している。
 「私のかういふ惨めな失敗はたゞもう今日の時代一般の巨きな病、「慢」といふものの一支流に過って身を加へたことに原因します。僅かばかりの才能とか、器量とか、身分とか財産とかいふものが何かじぶんのからだについたものでもあるかと思ひ、じぶんの仕事を卑しみ、同輩を嘲けり、いまにどこからかじぶんを所謂社会の高みに引き上げに来るものがあるやうに思ひ、空想をのみ生活して却って完全な現在の生活をば味ふこともせず、幾年かが空しく過ぎて漸くじぶんの築いてゐた蜃気楼の消えるのを見ては、たゞもう人を怒り世間を憤り従って師友を失ひ憂悶病を得るといったやうな順序です。」
 賢治を「社会の高みに引き上げに来るもの」は、死後にやってきた。しかし、世評の賢治のイメージとは真逆のことを、賢治はこの手紙の中で述べている。この文章を額面通り受け取っていいのだろうか。

 「詩人ではなくサイエンティスト」

 無名のまま死んだ宮沢賢治は何物だったのだろうか。この問いは、賢治自身の問いでもあった。生涯の節目節目で、賢治は、自分は何物だと、外に向かって自分に向かって、憑かれたように宣言した。
 辞典で「宮沢賢治」を引けば、「詩人・童話作家」と出てくる。しかし、賢治は、自分を詩人とは思っていなかった。生前唯一の詩集『春と修羅』を出した後、草野心平から、同人誌「銅鑼」への参加を勧められたとき、賢治は承諾の返事にこう書いている。
「私は詩人としては自信がありませんが、一個のサイエンティストとしては認めていただきたいと思います。」
 賢治は、自分の書いたものを、詩ではなく、詩以前の「ほんの粗硬な心象スケッチ」と呼んだ。謙遜もあったろうが、多くの謙遜がそうであるように、不遜な大望が秘められていた。その大望は、「或る心理学的な仕事」だった。それは、「これからの宗教は芸術です。これからの芸術は宗教です」という言にあるように、「歴史や宗教の位置を全く変換しようと企画」することだった。(病に倒れて挫折するのだが。)
 「サイエンティスト」については、どうだろうか。
 賢治の盛岡高等農林学校(現岩手大学農学部)卒業論文のタイトルは「腐植質中ノ無機成分ノ植物ニ対スル価値」だったし、卒業後は研究科に残り、稗貫郡の土性調査に従事している。賢治のキャリアは、「サイエンティスト」から始まった。
『春と修羅』に収められた「真空溶媒」では、風を次のように描写している。

 硫化水素もはいってゐるし
 ほかには無水亜硫酸もあるやうだ
 つまりこれはそらからの瓦斯(ガス)の気流に二つある
 しょうとつして渦(うづ)になって硫黄(いわう)華(くわ)ができる

 『春と修羅』を絶賛した詩人佐藤惣之助は、「彼(賢治)は、気象学、鉱物学、植物学、地質学で詩を書いた」と評した。詩壇の中での賢治の特異な位置がわかるが、詩壇のニッチを狙って、賢治がこういう詩を書いたわけではなかった。
 「こんな世の中に心象スケッチなんといふものを、大衆めあてで決して書いてゐる次第ではありません。全くさびしくてたまらず、美しいものがほしくてたまらず、ただ幾人かの完全な同感者から『あれはさうですね。』といふやうなことを、ぽつんと云はれる位がまづのぞみといふところです。」
 死の一年前、病床からの手紙で、賢治はそう書いている。
 けれど、病に倒れる十年前、詩集をまとめる数年前、二四歳の賢治は、サイエンティストのキャリアを突然思いがけない方向に転換した。日蓮宗の在家団体「国柱会」に入会するのである。
「最早私の身命は
日蓮聖人の御物です。」
と宣言し、家族(特に父親)や親友の祈伏を試みる。

  「日蓮聖人の御物」

 一九九六年(平成八)は宮沢賢治生誕百年で、松竹と東映で映画が二本作られた。その前年は、日本社会はオウム真理教事件に震撼していた。オウムに眉をひそめ、賢治を礼賛する日本。しかし、賢治とオウムの信者には、似た面がある。
 理系の高学歴の真面目な青年たちがオウムに「出家」するのを世間は不思議がったが、盛岡高等農林学校の研究生を辞めて、家業の質屋の店番をしていた賢治は、国柱会の活動に専念するため、突然「家出」して上京してしまう。
 測地天文学を専攻していてオウムに出家し、事件後脱会した一青年は、オウムに惹かれた理由をこう語っている。
 「食物にしても、お互いの生命体を食らいあっている肉食ということに対して根源的な矛盾を感じる。(略)パンを食べるとき、パンにはイースト菌が入っている。麻原彰晃はイースト菌もだめだといって、イースト菌をやめたんです。ぼくにとっては、そういう徹底性が気に入っ(た)」(宮内勝典・高橋英利『日本社会がオウムを生んだ』)
 二一歳の賢治は、親友にあてた手紙にこう書いている。
 「私は春から生物のからだを食ふことをやめました。(略)食はれるさかながもし私のうしろに居て見てゐたら何と思ふでせうか。『この人は私の唯一の命をすてたそのからだをまづそうに食ってゐる。』『怒りながら食ってゐる。』『やけくそで食ってゐる。』(略)もし又私がさかなで私も食はれ私の父も食はれ私の母も食はれ私の妹も食はれてゐるとする。私は人々のうしろから見てゐる。『あゝあの人は私の兄弟を箸でちぎった。となりの人とはなしながら何とも思はず呑みこんでしまった。』」
 賢治の肉食に対する強迫観念の表現は印象的だ。緒形直人が賢治を演じた東映の映画では、カツサンドを食べている親友に向かってこう言って苦笑される。井上やすしの戯曲『イーハトーボの劇列車』では、タータルステーキの食事中に賢治がこれを言う。
 宗教と政治の話は論争になるから会食の席では避けるというマナーがあるが、それ以上に避けるべきは、肉食しながら肉食の是非を論ずることだろう。映画や劇では、そういうKY(空気を読まない)な面がある人物として賢治を描いている。テレビがグルメ番組をやたら流し、世間がそれを露とも疑問に思わなければ、肉食に矛盾を感じる青少年は、オウムにでも「出家」したくなるだろう。
 一方、一月に「家出」し、上野にある国柱会の門を叩き、東大赤門前の印刷所で筆耕の仕事を始めた賢治は、しかし八月には花巻に戻る。妹トシが病に倒れたためだった。(翌年、死去)
花巻駅で賢治をむかえた中学五年生の弟清六は、兄が大きな革トランクを抱えていたことを覚えている。トランクの中には、東京での七ヶ月の間に書き溜めたおびただしい数の童話の原稿が詰め込まれていた。
 国柱会館に住み込んで下足番でもして信行に励みたいという賢治の無謀な願いは聞き届けられなかったが、文学が得意なら法華経の教えを現す創作をすることを勧められた。賢治は、昼は筆耕の仕事をし、夕方や休日は国柱会の街頭布教活動でチラシを配り、夜は童話を書きまくった。月に三千枚を書いたこともあったという。法華経の教えを説くだけの抹香くさいものでなかったことは、私たちがいま知る通りである。

「おれはひとりの修羅なのだ」

 大学は出たが、研究生のキャリアを放棄し、上京して宗教団体に入った後、ようやく帰郷した賢治は、県立花巻農学校の教諭という職を得た。二五歳だった。「青春の彷徨」は、形の上では終わったかのようだった。しかし、後に、「わたしにとって、じつに愉快な明るいもの」と振り返る教諭生活を、四年で辞めてしまう。
 花巻農学校は、一学年一クラスで二年制、教諭は四人だから、二人が授業をしていれば残り二人は職員室にいることになる。「毎日わづか二時間乃至(ないし)四時間のあかるい授業と、二時間ぐらいの軽い実習をもって、わたくしにとっては相当の量の俸給を保証されて居(お)りまし(た)」という生活になる。
 この時代、賢治は詩(「心象スケッチ」と自称していたことは前述の通り)を書き始める。生活の外面は安定したが、内面は緊張状態が続いていたことが詩からわかる。

いかりのにがさまた青さ
四月の気層のひかりの底を
唾(つばき)し はぎしりゆききする
おれはひとりの修羅なのだ

 教師になって二年後に刊行した『春と修羅』所収の、「詩集」のタイトルともなった「心象スケッチ」の一節である。
 宮沢賢治とは何物か?「修羅」だ、と云う。修羅とは何か。仏教の存在観でいう人間以下畜生以上の存在である。「聖人」賢治が人非人であることがあろうか?
 トルストイは、自己評価は分数のようなものだといった。実際の自己の大きさを分子とし、理想の自己の大きさを分母とする分数で、分子が大きくても、分母がそれ以上に大きければ、自己評価は小さくなる、と。
 二十代の宮沢賢治の実際は、並みの人間より人格・識見ともすぐれていただろう。しかし、理想が並はずれて大きかったため、自己評価は「修羅」と厳しかったのだろう。自己の内なる「諂曲(てんごく)」(こびへつらい)や「腐植の湿地」に敏感過ぎたのだろう。
 他方、外界は、「四月の気層のひかり」であり、「れいろうの天の海には/聖玻璃(せいはり)の風が行き交(か)(ふ)」春であった。(後に賢治は、外の世界が「春」でないことを知る。)

「おれたちはみな農民である」

 一九二六年(大正一五)三月に賢治は花巻農学校を辞し、八月に「羅須地人協会」を設立する。三十にして立った、のだ。
 農学校の教諭を辞めたのは、生徒たちには農村に帰って立派な農民になれと教えながら、自分は安閑とした給料生活をしている欺瞞に耐えられなくなったからだった。
 四月一日に実家を出て、別宅で独居自炊生活を始める。羅須地人協会と命名し、「下ノ畑ニ居リマス」と入口の黒板に書きつけることになる家である。この日「岩手日報」朝刊に、「新しい農村の建設に努力する花巻農学校を辞した宮澤先生」という見出しで、インタビュー記事が載った。
 「東京と仙台の大学あたりで自分の不足であつた『農村経済』について少し研究したいと思つてゐます。そして半年ぐらゐはこの花巻で耕作にも従事し生活即ち芸術の生がいを送りたいものです、そこで幻燈会の如きはまい週のやうに開さいするし、レコードコンサートも月一回ぐらいもよほしたいとおもつてゐます。幸同志の方が二十名ばかりありますので自分がひたいにあせした努力でつくりあげた農作ぶつの物々交換をおこないしづかな生活をつづけて行く考えです」
 この年は豊作だったが、翌年は干害、水害に悩まされたことを思うと、現実遊離した理想主義には呆然とする。
 「羅須地人協会」の「羅須」については議論百出というが、賢治自称の「修羅」を逆にしたアナグラムが妥当ではないだろうか。「地人」は、農民を「大地の詩人」と言い換えたものだろうが、言葉の言い換えで農民の現実が変わることはないことを、やがて痛切に知らされることになる。
 賢治が花巻農学校を辞める直前、農村指導者を養成する岩手国民高等学校という成人学級が二ヶ月間開設された。賢治も十一回にわたって「農民芸術概論」を講義した。
 賢治は、高らかに理想を謳い上げた。序論の冒頭にこう宣言する。
 「おれたちはみな農民である ずゐぶん忙しく仕事もつらい もっと明るく生き生きと生活する道を見付けたい」
 賢治は学校を辞めて農民になるつもりだったから、「おれたちは農民」だと宣言することに、違和感はなかっただろう。二十人の受講者も講義に感激したという。
 しかし、素封家の息子がその別宅と土地で農業を始めたことを見る世間の目は厳しかった。「道楽百姓」と陰口された。畑で作ったチューリップやキャベツやトマトをリヤカーに積んで街で売り、売れなければただで配ったが、花巻で二台あるかどうかというリヤカーをうらやましがられていたことに、賢治が気がついていたかどうか。
 食事は、三日分の飯を一度に炊き、梅干を入れて井戸に吊るし、必要なときにたくあんと一緒に食べた。五本も六本も食べた好物のナスも、近所の子どもに「ナスを一度に二本も食べる」とびっくりされてからは一本にした。慣れぬ労働に肉体を酷使しながら、菜食主義は続けていた。こういう無理がたたって病床に伏し、羅須地人協会は二年間で活動を閉じることになる。
 その出発点の「農民芸術概論」に戻ろう。
 「世界ぜんたいが幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」「求道すでに道である」
 賢治は、そう言った。仏教が息づいているのがわかる。すべての衆生が浄土に往生しないうちは、自分は浄土に行かないという菩薩の誓願が、証(さとり)を求める修行と証はすでに一つであるという教えが。
 最後にはこう謳い上げる。
 「おお朋だちよ いっしょに正しい力を併せ われらのすべての田園とわれらのすべての生活を一つの巨きな第四次元の芸術に創りあげようでないか」
 ベートーベンの第九交響曲「歓喜の歌」、「おお友よ、もっと歓喜に満ち溢れる歌を歌おうではないか」が聞こえてこよう。
 賢治は理想を実現しようとした。自ら「下ノ畑」で農耕をするだけでなく、羅須地人協会で、農業に必要な化学や土壌学の講座を開き、音楽会を、子どもたちへの童話会を開いた。あちこちに出張して無料で農民の肥料相談に応じた。
「それでは計算いたしませう/場所は湯口(ゆぐち)の上根子(かみねこ)ですな/そこのところの/総反別はどれだけですか/五反(たん)八畝(せ)と/それは台帳面ですか/それとも百刈(かり)勘定ですか/いつでも乾田(かただ)ですか湿田(しけた)ですか/ すると川から何段上になりますか/つまりあすこの栗の木のある観音堂と/同じ並びになりますか/ああそうですか あの下ですか/そしてやっぱり川からは/一段上になるでせう/畦(あぜ)やそこらに/しろつめくさが生えますか」
 こういう質問をさらに十幾つも続けた後、最後に次のように問う。
 「さてと今年はどういふ稲を植ゑますか/この種子は何年前の原種ですか/肥料はそこで反当(たんとう)いくらかけますか/安全に八分目の収穫を望みますかそれともまたは/三十年に一度のやうな悪天候の来たときは/藁(わら)だけとるといふ覚悟で大やまをかけて見ますか」
 この後、その農民のどの田畑にどのような肥料をどれだけいつ撒けば良いかという設計書を書くのである。羅須地人協会発足の翌年には半年で二千枚を書いたという。

 「デクノボーになりたい」

 賢治は農民に受け入れられただろうか。

 土も掘るだろう
 ときどきは食はないこともあるだらう
 それだからといって
 やっぱりおまへはらはおまへらだし
 われわれはわれわれだと

なんべんも言われた。「わたくしもまたうなづくことだ」とならざるをえなかった。(「作品一〇〇八番」『春と修羅 第三集』)
 では、農民が「いっしょに正しい力を併せる」理想の方は、受け入れられただろうか。

 くらしが少しぐらゐらくになるとか
 そこらが少しぐらゐきれいになるとかよりは
 いまのまんまで
 誰ももう手も足も出ず
 おれよりもきたなく
 おれよりもくるしいのなら
 そっちの方がずっといいと
 何べんそれをきいたらう
 (「火祭り」『春と修羅 第四集』)

 それが農民の現実だった。「さうしてそれもほんたうだ」と賢治は認めざるをえなかった。「主義とも云はず思想とも云はず/ただ行はれる巨きなもの」が賢治の前に立ちふさがった。

 そのまっくらな巨きなものを
 おれはどうにも動かせない
 結局おれではだめなのかなあ
 (略)
 からだを投げておれは泣きたい
 けれどもおれはそれをしてはならない
 無畏(むゐ) 無畏
 断じて進め
 (「(そのまっくらな巨きなものを)」同前 )

 しかし賢治は病に倒れた。賢治を挫折させた「巨きなもの」とは何だったのか。農民から希望を奪う地主小作制であり、資本主義体制ということか。あるいは農民の、いや人間のエゴイズム、業ということか。
 三年間の病床生活に小康を得た賢治は、倒産寸前の砕石工場から相談を受けると、石灰石粉を土壌改良のために売り込む仕事に就いた。十年前に童話を詰め込んで東京から帰郷したトランクに、今度は四〇キログラムを超える商品見本を詰め込んで東京に向かう。しかし、肺炎を再発して倒れる。二年後、死去。
 死後、トランクのポケットから手帳が見つかった。手帳には次の詩が書かれていた。
 
 雨ニモマケズ
 風ニモマケズ
 雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
 丈夫ナカラダヲモチ
 慾ハナク
 決シテ瞋ラズ
 (略)
 ミンナニデクノボートヨバレ
 ホメラレモセズ
 クニモサレズ
 サウイフモノニ
 ワタシハナリタイ

 「おれは修羅だ」と言った賢治は、「デクノボーになりたい」と言って死んだ。
 WHAT WAS KENJI MIYAZAWA ?