量の理論は認識論 | メタメタの日


 自分でもだんだんはっきりしてきたのだが、数教協の「量の理論」とは、認識論なのだ。存在論ではないのだ。客観世界の実在がどうなっているのかという自然科学ではなく、客観世界を人間理性がどういうものとして認識するのかという認識論なのだ。

 こういう理解は、数教協の中でもあまり言われていなかったし、いないと思う。銀林浩さんの『量の世界』(1975)も、タイトルに「世界」とあるように、人間の認識の外部に量の世界があるような記述になっている。確かに、人間の外にある「物」に対する「感覚の数値化」から「量の学習」が出発すべきことが述べられてはいるが。(16頁)

 しかし、量の区分の第1段階の「連続量と分離量の区別」についてはほとんど触れずに、種々の外延量と内包量の説明が始まるし、いったいどう認識すべきかということ自体が大問題の「時間」は外延量として、つまり連続量としてのみ議論されている。

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 量の理論は、算数・数学教育をめぐる議論から生まれたから、算数・数学を教えるときに役に立つ。(量の理論を教えることではなく、教える者が量の理論を知っていることが役に立つということだが、そう思わない人もいる。)と同時に、人類の数学に至る認識の歴史を理解するための枠組みとして役に立つ。

 算数教育(個的発展)は、数学史(歴史発展)を後追いする必要はないし、私たちもそのようには教わらなかったし、それで良いのだと思うけれど、教育の順序と歴史の順序を腑分けして理解していないと、人類の数についての認識の発展を勘違いすることになる。コロンブスの卵のように、後の者にはまったくあたりまえのことが先人にはわかっていなかったということが多々あるのに、いちどわかるともうそれ以外考えられなくなり、先人がわからないということがわからない。

 たとえば、数直線もゼロも小学1年で教わり、小数も分数より先に小3で教わる。しかし、ヨーロッパでゼロが知られたのは13世紀、数直線も小数も1617世紀になる。日本では、小数こそヨーロッパより先に使われ、ゼロの概念も江戸時代を通じて次第に形を成していったが、数直線も数としての分数も明治時代になってから洋算移入で常識となったという浅い歴史しかない。

 現在の私たちは、数直線上に数を座標のように書くことは不思議でも何でもない、というより、数をそのように認識するのがデフォルトになっている。目盛が書かれた定規の存在などあたりまえのことと思っている。しかし、江戸時代の定規には目盛の数字は書かれていない(ことを確認するために、私は竹芝にある東京都計量検定所に保存されている定規を見に行った)。江戸時代の数量観を調べ始めたとき、定規に数が書いてあるのになんで数直線の考え方が生まれなかったのかと不思議だったのだが、逆だった。ゼロの概念が成熟しておらず数直線上の座標表示が生まれていなければ、定規の目盛に数値を記入することはありえないのだ。定規が先で数直線が後ではなく、数直線が先で定規の目盛が後だった。

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 数直線は連続量を表現するものとして数を捉えている。

 しかし、数の歴史の始まりは、こうではなかった。

 数の歴史は自然数(正の整数)から始まる。自然数から始まるということは、数は分離量を表現するものとして生まれたということになる。精確にいうなら、対象を分離量として捉えて(分節化して)数値化したものということになる。文献的証拠はないが、連続量の数値化が自然数を組み合わせること(分数)でなされているのだから、自然数の存在が先であること、自然数で表現されたものとは分離量として認識されたものということになる。

 連続量のイメージが線であるなら、分離量のイメージは点(大きさのある点)である。最初は小石だったのだろう。現在の小学校の教科書ならドットである。

 数は先ずはドットだったし、である。歴史的にも、教育においても。或る物(分離量)とみなした対象を、ドットに半抽象化して、ドットの個数をかぞえた。

 ピタゴラス学派においては、三角数や四角数という数は、三角形や四角形になるように並べたドットの個数のことだった(四角数は今なら平方数という)。線の長さなどの連続量はドットの個数の比で表わした。ドットの個数で表わせない無理数の発見がピタゴラス学派に大恐慌をもたらしたのはわかる。

 ユークリッド『原論』第7巻によれば、「定義1.単位とは、存在するもののおのおのがそれによって一と呼ばれるものである。2.数とは、単位からなる多である。」

 自然数だけが数であり、自然数で表わされるものは分離量として認識されていたわけである。

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 分数も小数もゼロも知らず、正の整数だけを使っていた遠い遠い昔に、時の経過の数値化はいかになされたか。

 現代の私たちにとっては、時間は数直線でイメージされる。時の経過のイメージは、「今」という点時刻が数直線の上を移動していくイメージだろう。「今」という点の軌跡で示される時間は連続量であり、時間を計るスタート時点は0である。1日は午前0時に始まり、24時間後の午前0時に次の1日が始まる。しかし、こういうイメージで時間を捉えるようになったのは、人類の数万年の歴史の中でもここ数百年のことだろう。つまり、人類の認識の表層1%の認識がこういうものであっても、99%の認識は違う。

 時間の分節化とその数値化は、歴史的には先ず「日」でなされ、次いで「月」「年」でなされた。「日」のさらなる分節化(朝、昼、夕、夜、などなど)はかなり早くになされただろうが、その数値化である「時」や、さらには「分」「秒」の数値化は、ずっと時代が下ってからなされただろう。なぜなら、日、月、年は分離量として数値化されたが、時、分、秒は連続量として数値化されたという違いがあるから。(銀林浩『量の世界』では、分離量としての時間は考慮されていない。)

 現代の時間観では、日の分節は午前0時の点時刻で人為的になされるが、時自体は午前0時で切れずに連続していると捉えられている。

 しかし、昔は、日は夜で分離していた。

 真木悠介『時間の比較社会学』(1981年)では、永藤靖がヤマトタケルの「かがなべて、夜には九夜、日には十日を」や天若日子の葬儀の「日八日夜八夜遊びき」をひいたあと、

「神話においては、少なくとも昼と夜という異質な二つの世界を括って「一日」とする観念はあり得なかった。」

と述べていることを紹介した後、

「それは、この「二つの世界」をつらぬいて流れてゆく共通の「時間」という観念が、なかったからである。」

と述べている。

 日と夜が分離していて、日も夜もその中をさらに分節化して数値化することがなかった時代は、日も夜も分離量としてかぞえていた。

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 こういう時代が何千年か何万年か続いて、今も、日は分離量としてかぞえている。(ただし、一昼夜を一日とすることもあり、日のある時刻を起点として連続量としてかぞえることも生じ始めているが。)