物の集まりの多少を表わすことば(基数)と事の起こる順序を表わすことば(序数) | メタメタの日

 白川静『甲骨文の世界』(平凡社「東洋文庫204」,1972年)72頁に次の図があります。


メタメタの日-甲骨文字



 

 

 白川さんの訳は,「乙酉卜して,●貞ふ。人を河に使せしむるに,三羊を沈め,三牛を●めんか。三月」

注釈して読みを入れると,「乙酉(きのととり)卜(うらない)して,●(宀の下に万という字。「ひん」と読み,貞人の一人)貞(と)ふ。人を河に使せしむるに,三羊を沈め,三牛を●(冊の下に口。「きょ」と読み,清めの儀式)めんか。三月」

「ひん」という貞人が三月乙酉の日に,黄河の神に使者を送るのに,羊を三頭沈め牛を三頭捧げるべきかと,亀の甲に記して占ったということです。

左から2行目下に「三羊」,最左行下に「三月」,その上に「三牛」とあります。

三羊は,three sheep,三牛は,three oxen(cows?)でしょうが,三月は,three moonsではなく,the third month of the year です。

漢数字の「三」が基数も序数も表していることがわかります。

このように,殷代(紀元前17世紀頃~前11世紀)には,すでに基数も序数も表す一,二,三,四,五,…(四以上の字形は今とは違いますが)の甲骨文字があったにもかかわらず,月の名は「三月」としながら,日にちの方は「乙酉」と干支を使っています。

干支表は,殷代には完成し,年・月・日に使用されていた(※)が,年・月は漢数字による表記が主になり,日にちだけが干支で記されたようです。現在のカレンダーでは,月が替われば日にちは「1日」からカウントし直しますが,干支による紀日法では,十干十二支の60日のサイクルが終わるまで続け,終わればサイクル最初の「甲子」に戻ります。

殷代から始まった干支の紀日法は途切れることなく今日まで続いていますが,一方,西洋では,西暦前471311日から日数を通算して数えるユリウス通日が今日まで続いています(※)。ユリウス暦の始まりの日は干支でいうと「甲寅」にあたり,甲子を1,癸亥を60とすると,ユリウス通日を60で割った剰余から10を減じた数が干支を示します(※)。

年月日という同じ対象を中国文化圏では,「数」または「干支」で表しているわけですが,月については,英米でも序数以外の呼び名,JanuaryFebruary,…の方が一般的でしょうし,日本にも,睦月,如月,…の呼び名があります。現代中国では,週の曜日を,「星期一」(月曜),「星期二」(火曜),…,「星期六」(土曜)とし,日曜を「星期日,星期天」としています。

※大谷光男「干支がひろがる中国文化圏」(『国際交流』第9914頁,2003年)

このように,時間を分節して命名するとき,数で名づけることも,数以外のことばで名づけることもできるわけですが,この数以外のことばを「数」と呼べるでしょうか。

『淮南子』(前2世紀)の巻三「天文訓」は,そうだと言っています。「数は甲子より始まる」(「數従甲子始」)。この「数」の意味は,「干支の順番」ということでしょうが,干支は順序数だ,といっていると理解できます。

ただし,「数は1より始まる」と言ったペアノと違うのは,ペアノの公理系では,「1はどんな数の後にはならない」のに対し,甲子は癸亥の後にくるので干支が循環することなります。ペアノによれば,循環するものは数ではないのです。

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漢字「數」の意味は,白川静『字統』(2004年)によれば,「婁は女子が髪を高く結い上げた形。これに攴を加えてその髪形を乱すことを数(さく)という。ゆえに数数(さくさく)として髪が乱れるのが字の原義。(略)その髪が乱れて多く,数えがたいことから数の意となる。」とあります。

見た目の物(髪)が多く,「数えがたい」ことが數という語の始まりだということは,序数ではなく基数の意味の方が強かったことをうかがわせます。

では,和語ではどうだったのでしょうか。

大野晋編『古典基礎語辞典』(2011年)の「かぞ・ふ」によれば,「カズ(数)とアフ(合ふ)が複合して転じた語。(略)カゾフは一つ二つと数を合わせていく意。本来は足し算の行為であったと考えられる。(略)また数を追って日数や日付を知る意。」(執筆は大野)とあります。

この記述では,「かぞえる」前に「足し算」があって,足し算という本来の行為からかぞえるという行為が出てきたようですが,逆ではないのか。ヘーゲルは,最初に「かぞえる」という行為があって,かぞえてできた数をかぞえ合わせことが足し算であると書いていますが(岩波文庫『小論理学 上』310頁,『大論理学 上巻の235頁),ヘーゲルを持ちだすまでもなく,そうだろうと思えます。

『古典基礎語辞典』では,「かぞ・ふ」=「カズ(数)とアフ(合ふ)の複合」とあるので,では「かず」の語源はと,「かず」の項を見ても,何も書いてありません。

ところが,白川静『字訓』(2005年)の「かず」には,次のようにあります。

「「かぞふ」(下二段)と同根の語。「かぞふ」の「そふ」は「添ふ」であろう。「日を數ふ」「夜を數ふ」といういい方が多く,「か」はあるいは「日(か)」であろう。その数をよみながら足してゆく意である。(略)(『字統』の「攴を加えてその髪形を乱すことを数(さく)という」の説明があって) 祭祀に奉仕する婦人の結い整えた髪を殴()って乱すのは,その婦人に何らかの罪科とすべきことがあって,これを責める意であるから,数(さく)にはまた責める意がある。その罪科を数えあげることを数(すう)という。数字の観念はあっても,数一般という抽象的な語を示す方法は,わが国では日を数える「日(か)そふ」,また漢字では罪科を数えることに由来している。」

漢字の「數」については,白川説以外にも,「婁(計算する細い竹の棒)+攴(手に小木を持つ)」という説(『日本語源広事典』2010年)があって,判断しかねるのですが,和語については,「かず」の「か」を「日(か)」とする説には説得力を感じます。

ヒ(日)の複数形がカ(日)であると,『古典基礎語辞典』の「か(日)」の項にもありますし,同辞典「かぞ・ふ」の項には,前記のように,「数を追って日数や日付を知る意」とあります。

数を(順序数で)かぞえるとき,人類は歴史の最初にいったい何を数えたのだろう,という疑問があったのですが,日をかぞえたというのは,納得できます。

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 レヴィ・ブリュル『未開社会の思惟』(1910年,岩波文庫231頁)によれば,ニューギニアの南のトレス海峡のムレー諸島では,

{●}を,netat

{●●}を,neis

{●●●}を,neis netat

{●●●●}を,neis neis

 と呼びます。(「かぞえる」ということばは,順序数を思わせるので避けたいところです。)

 独立した数詞としては,1を表わす数詞netatと,2を表わす数詞neisしかなく,3は「21」,4は「22」と呼んでいます。しかし,このやり方でいくつまでかぞえるのかは書かれていません。

 一方,ムレー諸島では,この方法以外に,体の部位を使って31までかぞえる方法があります。左手の小指から始まって5本の指,手首,肘,腋の下,鎖骨のくぼみ,胸,そして,反対の右側に移って,鎖骨のくぼみ,腋の下,肘,手首,5本の指(最後は右手の小指),とここまでで21(ママ。これだと19にしかならない),足の指を加えて31(ママ。同じく29)というかぞえ方です。

1 kebi ke      小指
2 kebi ke neis
  紅指

3 eip ke
     中指

4 baur ke
    人差指

5 au ke
     拇指

6 kebi kokne
  手頸

7 kebi kokne sor
 手頸の背面

 ・・・・

29 kebi ke nerute 他の小指

 に至るというかぞえ方です。(同書234頁。231頁の記述とは合わない。ムレー島でも体の部位を使う「かぞえ方」には個人差があるのかもしれない。)

 なぜ2通りの「かぞえ方」があるのでしょうか。

 前者の12の組み合わせは,目に見える物を2個ずつの組に分けて呼ぶ方式なので,基数的といえるでしょう。ただし,2を表わすneisをいくつ言ったのかが判然としなくなり,多くの物の数はわからなくなりそうです。その場合は,後者のかぞえ方になるのでしょうか。

 後者の方法は,かぞえたい事物のひとつひとつと体の各部位とを11対応させて「かぞえて」いくわけですから序数的といえますが,指の名前は指,腋の下の名前は腋の下をさすのですから,体の部位の名前がそのままで「数詞」でもあるというのは,言い過ぎでしょう。

後者の方法は,目の前に現前する物が多い(10数個以上)場合や,目の前に現前せずに時間の流れの中で継起する事柄(まず日にちでしょう)を数える場合に有効のようです。

前者の方式の特徴は,一定の数の集まりを一塊として命名する底の原理です。これが,2進法から,指の数の5進法,10進法にまで拡張し,後者の方式の特徴である11対応と結びついたとき,今私たちがあたりまえのようになじんでいる「数」が生まれたのかもしれません。そして,数によって,私たちの祖先がいったい何を数えようとしたのかを思うとき,日数は候補の筆頭に上がるでしょう。

このように考えると,古事記の歌謡「日日(かが)並べて 夜には九夜 日()には十日(とをか)を」や,ラッセル『数理科学入門』「第1章自然数列」の「われわれが雉の一つがいと二日とがともに数2の系列であることを見出すには多くの年月を要したにちがいない」という記述に新たな感慨がわいてきます。