パスカルはなぜ負数の存在を理解できなかったか | メタメタの日

藤沢利喜太郎の1895年(1902年訂正版)の『算術條目及教授法』に次の一節があります。
「けだし,不尽数の自然的,数学的なる解釈を得て,量と云う観念を純粋なる数学より排除することは数学者多年の希望なりしなり。デデキンド,ベルトラン,カントル,タンネリー,ジニー,ハイネー,ワイアシトラス,クロネツケル,リプシツツ等諸氏のこの事に関する尽力の功は空しからず。今日は最早,外物の補助を借らずして,純粋の数学的道行きにより不尽数を整数分数より導き来ることを得るようになれり。算術,代数,整数論,微積分等の数を論ずる数学諸科をして,数以外の観念より純粋にせんとする数学社会多年の希望は満足せられたり。」(国会図書館「近代デジタルライブラリー」所収,137頁)

 1,2,3,・・・は,歴史的には,物の多少の量に命名することから始まったはずですが,この「外物の補助」を排除することを,純粋数学は希望していたのだろうか,という私の疑問に,黒木玄さんから,「希望していたのは「排除」ではなく、「依存の解消」だと思っておけば間違いないと思います。」とコメントをいただいた。http://suugaku.at.webry.info/201203/article_1.html

それを受けて,…


0,1,2,3,・・・は,集合数としては,物を11対応でグループ分けしたグループに付けられたラベルということになるのでしょう。順序数としては,空集合を0として,空集合から順次に構成していくものになるのでしょう。

 集合数において,11対応する「物」は,数以前に存在するものでした。したがって,数を外物に依存せずに定義するという立場からは,順序数として数を定義することになるのでしょう。

 しかし,ペアノ(1891年)にしろ,ツェルメロ(1908年),ノイマン(1923年)にしろ,現代数学の立場からの数の構成には,物の個数の多少という量に付けられた名称としての数という人類史における発展や学校教育での認識発展と切れていて,どうしても違和感がある。それは,理系と文系の違い(足立恒雄『数とは何か』2011年,20頁)というだけではなく,ヘブライズム(一神教)の土壌からのヨーロッパ数学と,中国・日本の土壌からの数理感覚との違いのようにも感ずる。

 そもそも中国・日本には序数詞がなかった。中国では,序数を表すには,「第一」とか「一番」というように基数に「第」「番」を付けて表した。日本では,「巻第一」という漢語を「マキノツイデヒトマキニアタルマキ」と訓んだという(『日本書紀』上,岩波書店,日本古典文学大系,577頁)。

 順次に継起するものとして先ず思い浮かぶのは「時間」だろうが,中国では,分節された年月日時は,数字ではなく十干十二支で命名された。年月日時は,十干十二支によって60ごとに巡回することになる。ヘブライズムでは,天地が創造され光と闇が分けられた“the first day”,大空と大水が分けられた“the second day”と始まり,最後の審判の日まで,時間は一直線に連続し,日にちも年数も序数で数値化されていく。この時間観の違いが東西の数感覚にも反映されているように思える。

 負の数については,17世紀のヨーロッパで,「私は,0から4を引いて0が残るということを理解できない人たちがいるのを知っている」とパスカルが記した(『パンセ』)ことを私たちは知っているが,あのパスカルでさえ負の数の存在を理解できなかったということは驚きである。中国では,その千数百年前の紀元1世紀の『九章算術』で,「正を無入(ゼロ)から引いたのは負とする」などの正負術が確立していたのだから。

 パスカルがなぜ負数を理解しなかったかが疑問だったのだが,無(0)から天地が創造され,1,2,3,…と数列が続くことになる時間観=数感覚では,天地創造以前の数列は無意味だったということではなかろうか。

ここで,パスカルの時代に紀元前の年数をどうカウントしていたのだろうかと疑問になったが,薮内清『歴史はいつ始まったか』(中公新書,1980年)171頁によると,「キリスト紀元以前の年を数えるには,かつてはいくつかの古い紀元を用いる習慣が長いあいだ残っていた。しかし18世紀以降にはキリスト以前を意味するante Christum(略号A.C.)が用いられ,イギリスではそれを英語で示したbefore ChristB.C.)が使用されるようになった。」とあり,ヨーロッパでの負数の概念の普及の進度が納得できた。

 

 ともあれ,0から始めて順序数として数を定義する(「創造」する)現代数学のやり方は,無から天地を創造したというヘブライズムの発想とどこかで通じていないかと疑ってしまう。