かけ算順序論争での質問への回答 | メタメタの日

 かけ算順序論争は、現在kikulogを主舞台に、黒木玄さんのコラムを脇舞台にして進行中ですが、kikulog1192. February 14, 2011 @18:48:55で、ドラゴンさんが黒木さんに以下の質問を提出されました。

Q1 例えば森毅氏が、かけ算には順序があるとお考えになったのは、どのような理由からと推測されますか。また、歴代の東京書籍の算数教科書の著者がこの教科書を認められている理由をどのようにお考えになりますか。森毅氏を「最低」と評されるだけでは、問題が明らかにならないと思います。
Q2
 式を計算の道具ではなく、表現の手段であることを子どもに理解させるのは必要なこととお考えになりますか。
Q3
 指導法の判断基準に「子どもの理解」を用いることの是非と、用いるべきでないというならば、何を規準とすればよろしいですか。
Q
4 かけ算の立式の順序はないとされる根拠は何でしょうか。
 海外でもそれぞれの文化や言語に依存した形でのかけ算の順序はあるように思います。


 これに対し、僭越ながら、私が回答したものが、以下です。

Q1 例えば森毅氏が、かけ算には順序があるとお考えになったのは、どのような理由からと推測されますか。」

 『数の現象学』によれば(ちなみに、この本は、私にとって、遠山啓の『数学の学び方・教え方』と並んで、いやそれ以上に、算数について考えるためのバイブルのような存在です)、言語習慣からくる「ヤクソク」ということですね。「言語習慣が違う日本とヨーロッパとでは、かけ算の順序は違う、しかし、それぞれ順序はある」と森さんは考えていられたようですね。

 ここは、私は異論があります。

 それぞれの民族の言語習慣での算術の発想や表現には注意を払い、尊重もする必要があるでしょうが、民族数学の存在を理由にして普遍数学への理解を妨げてしまうとしたら、それは、小学校の段階でも許されるべきではないと思います。

 数教協も分数の教え方では、日本語の言語慣習だった「の付き分数」(百円の五分の一、とか)という「割合分数」から導入するのではなく、「量分数」から導入すべきことを主張し、現在、どの教科書もそうなっているはずです。

Q2 式を計算の道具ではなく、表現の手段であることを子どもに理解させるのは必要なこととお考えになりますか。」

必要です。

私が教えた経験があるのは、小4から中3までですが、カン(ひらめき)で答えが分かっても、式を書くことを要求しました。しかし、そのとき、かけ算の式を「1あたり量×いくら分」の順序で書かせることは、まったく考えもしませんでしたし、いま振り返っても、その必要性は感じません。


Q4 かけ算の立式の順序はないとされる根拠は何でしょうか。」

同じ数量のモノが複数あるという構造のとき、かけ算という計算で総量が求められることを理解し、かけ算では交換法則が成り立つことを知っている小学3年生以上は、全体構造のうち「同じ数量」と「いくら分」のどちらを先に認識して、どちらをかけ算の先に持ってこようが総量を求められる、ということを知っているし、知ってもらわなくては困るからです。

Q3 指導法の判断基準に「子どもの理解」を用いることの是非と、用いるべきでないというならば、何を規準とすればよろしいですか。」

受験算数を教えていたときに考えていたのは、数学へのつながりでした。方程式は教えませんでしたが、方程式を学ぶときに障害になるような、特殊算の特殊な考え方は避けたか、別解程度にとどめました。あるいは、その数値だから、そう解ける、という解き方も、好きではありませんでした(これは、いま、ちょっと反省していますが)。普遍性への道に通じる考え方・解き方であるかどうかが、指導法の優劣を判断する基準でした。