今、現在、無限については、以下のように愚考しています。
人類が無限という概念を感じはじめた最初は、カミの無限の力というようなものだったのでしょう。その後、西洋文化圏では、神(の力あるいは愛)の無限性とか、宇宙の大きさの無限性とかいうようなことを思考し始めたのでしょうが、これらの概念は取りつく島がないというか、それらについて思考し記述しても、その記述の真偽を検証しようがなかった。
しかし、自然数を数えることなら、10個のインド・アラビア数字による位取り記数法を知る以前から、大きな桁に名前さえつければ位取り命数法で無限に数える(数えられる)ことを知っていたでしょうし、線分を無限に分割する(分割できる)ということも知っていた。そして、これらの無限について思考し記述することは、実在するかどうかわからない神の無限性などについて思考することと違って、とっかかりがあるし、その思考の妥当性を検証することもできる。
このようにして無限について思考し始めた古代ギリシア人たちは、その思考の主題を「自然学」と称していたように、無限を、自然という客観世界の属性として論じていたのでしょう。しかし、現代の私(たち)は、客観世界は有限であり、無限は、有限の延長上にフィクションとして仮構されたものである、と考えている。つまり、無限は思考された概念であり、実在する対象ではないし、実在から抽象された概念でもない、と考えている。
これは、古代ギリシア人にとっては、幾何学は客観世界の真理であったが、現代においては、数学は観念世界の体系として考えられていることと相即しているのでしょう。
などと考えています。