現実世界と観念世界を区別するメルクマールのひとつは、思考の外部を持つか持たないかですが、アキレスと亀の話では以下のようになります。(原形のゼノン・バージョンの話で、トピ題の「疲れちゃったバージョン」の話ではありません。)
「アキレスが亀に追いつかない」ということがパラドクスになるのは、「アキレスが亀に追いつく」という常識と矛盾するからですが、このパラドクスの解決が二つの世界ではどうなされるかを見ていきます。(既出ですが、少しずつ表現が悧巧になっている。)
観念世界の場合。
「アキレスが亀に追いつく」という仮定を含む公理系が無矛盾で、かつ正しい推論で「アキレスが亀に追いつかない」という結論が導きだされたとしたら、「アキレスが亀に追いつく」という仮定が偽であったと考えます。
この公理系(観念世界)では、アキレスは亀に追いつかないが真になります。同様に、飛んでいる矢は飛ばず、到着点にはたどり着けないか、あるいは出発することもできない。ということになりますから、運動が否定されます。
観念世界では、時間が存在せず(定義されず)、変化が存在せず(定義されず)、同一律が支配する世界ですから、運動が存在しないことも納得できます。
という解法がひとつあります。
もうひとつ数学的解法もあります。
時間を数直線(変数χ)に置き換え、距離をべつの数直線(変数y)に置き換え、有限の距離の無限の地点(実数)に、有限の時間の無限の時点(実数)を対応させ、無限の地点を有限の時間で通過することが可能であると考えます。アリストテレスの解法を数学的に厳密化したのが無限級数の和を使う解法だと言われていますが、そうなんだろうと思います。ただし、実数の公理系の無矛盾性の未証明という問題があるようで、これもそうなんだろうと思います。
現実世界の場合。
一方、現実世界でのパラドクスの解法は次のようになります。
「アキレスが亀に追いつかない」という結論が導き出されたとしても、思考の外部で実験をするまでもなく、足の速い者が先行する足の遅い者に追いつき追い越すというのが、現実世界の真実です。この真実を思考の前提として疑う理由は無い。
とすると、他の前提が間違っていたか、推論の過程のどこかに間違いがあって、アキレスが亀に追いつかない、などというトンデモ学説が生じたわけです。
ゼノンのパラドクスの前提には、「空間が無限に分割できる」という命題を含みますが、これが「空間には最小単位がある」という、現実世界で想定される別の前提と矛盾し、後者の前提の方が真だからアキレスは亀に追いつくのだ、という解法もあるでしょう。
しかし、プランク長という10のマイナス30何乗メートルのことを問題にするより以前に、パラドクスの別の前提「アキレスという名前の点と亀という名前の点が等速直線運動をする」の方が怪しいと思うのです。おそらくミリメートル(10のマイナス3乗メートル)単位のところで、アキレスや亀の重心(点)も最先端(点)も揺れて等速直線運動はしなくなるでしょう。したがって、アキレス点が直前の亀点に着いた時、亀点が後方に振れていたということがあるから、アキレスは亀に追いつき追い越すことが可能である。
現実世界におけるパラドクスの解法としては、この方が妥当だと思うのです。
つまり、現実世界の思考は、「等速直線運動をする」という前提から出発しても、「等速直線運動をしない」という事実が正しいと思えたら、それを思考の過程の内に取りこんで妥当な結論を導くのです。思考の外部を持つ、のです。