「量の体系」のことを知ってから、この20数年間ずっと納得してきたのだが、最近、ちょっと疑問が出てきた。
量の体系では、かけ算を、
1当たり量×いくら分=全体の量
とする。
これは、「数学という学問体系において乗法をかく定義する」ということではなく、「子どもにかけ算を教えるときは、先ずこの意味で導入する」ということなのだが、このときの「いくら分」は量なのだろうか、という疑問が生じた。
「4人に3個ずつミカンを配る。ミカンは何個必要か」という問題の立式は、
3×4=12
となる。単位まで書いて、1当たり量×いくら分の順番が守られていることをはっきりさせると、
3個/人×4人=12個
となる。「いくら分」は4人であり、量の体系としては、
内包量×外延量=外延量
となり、「いくら分」は外延量という量という理解になる。
しかし、この場合の「4人」には、ほとんど意味がない。
「4皿に3個ずつ」なら、3個/皿×4皿=12個 だし、
「4本の木に3個ずつ」なら、3個/本×4本=12個 となり、
外延量の単位が人でも皿でも本でも何でも、この式の意味する本質には関係がない。
この式の意味するところは、3個の「4つ分」ということである。
「×4」は、「4つ分」を「とる」ということになる。
ここで「とる」を「加える」と解すると、かけ算について昔から理解されてきた「累加」ということになる。しかし、遠山啓や数教協は、小数や分数の乗除のことまで考えると、かけ算を累加の簡便型として教えることはまずい、ということから議論を始めて、「量の体系」という考えに至ったはずである。
いま、かけ算を累加の簡便型と「昔から」理解されてきた、と書いたが、いったいこの「昔」とはいつのことなのか、という疑問も生じた。
そんな昔のことではないのではないか。明治時代になって洋算が入ってきてからではないか。なぜなら、江戸時代までは、掛け算のことを「乗」とも言い(今でも「乗法」と言うけれど)、この乗を「かける」と読むこともあった。九九の「四三十二」とは、三を四個「乗(か)ける」ことだった。
江戸時代の九九では、九九の前の数が乗数(江戸時代の用語では「法」)、後の数が被乗数(江戸時代の用語では「実」)と解するのが正統的だった。算木の計算なら、3本の算木を1マスに4箇分「乗せる」、すると12本になる、という操作のことだったはずである。
だいたい、江戸時代には「+」や「×」という記号がなかったのだから、「3×4」を「3+3+3+3」と解することはない。あえて書けば、「四三十二」の「四三」とは、「三、三、三、三」という理解だろう。「三」が四個であって、足し算(+)が4回ではない。
だいたい、「3×4」を「3+3+3+3」と解すると、足し算は3回という理解になり、これが、数教協が、乗法を累加として導入することを否定する大きな理由の一つだった。
数教協の水道方式がブームになった1962年に、それまで算数教育に大きな影響力を持っていた塩野直道は『水道方式を批判する』という本を啓林館から出している。いまさら言うまでもないが、塩野直道は、戦前の「緑表紙」の国定算術教科書の編纂者であり、戦後もアメリカ進駐軍の「生活単元学習」を最初に1点突破する算数教科書を啓林館から刊行している。両書とも、ある意味感動的な名著です。しかし、遠山啓や数教協との論争には負けていると言わざるをえない。
『水道方式を批判する』28頁に、次のようにある。
「従来、整数のかけ算は、同じ数を何回かたす(同数累加)場合に、たされる1つの数と、たす回数とから、たした結果を求める計算であると意味づけて指導してきています。」
これは、緑表紙から啓林館までの自分の指導のことも含め、それを是としているわけだが、これでは、「3+3+3+3」の「たす回数」を3回と誤解する子どもがいることを数教協が指摘したことを全然踏まえていない。
29頁には、数教協が、「ウサギの耳は2つ、ウサギが3匹いると、耳の数は全部でいくつか」という例題を使って、2×3の式の答の求め方として、2+2+2としても、3+3(右耳の数+左耳の数)としてもよいとしていることを批判し、30ページでは、「2×3というのは、(量)×(量)として、どんな意味をわからせたのか私にはサッパリわかりません。かけ算の意味を「ウサギの耳」からはいっていくと、精薄児でも理解ができた、と数教協の研究集会で報告されているそうですが、そうなると、私は精薄児以下の低能ということになりそうです。ひょっとすると、数教協以外の者は、すべて低能かもしれません。」と書く。
ここで塩野が、数教協の教え方だとして書いている内容は、私にも「サッパリわからない」が、内容の問題というより、こういう言いがかり的物言いは、論争に負けていることを逆に証明しているとしか思えない。
いや、話が横道にそれかけた。