数える→累加→積 | メタメタの日

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>601 Sparrowhawkさん

==============(引用初)===============

「かけ算」には実数体における積のイメージ(これは幾何的なものに由来し解析学にまでつながる)とともに後者関数,そして加法から再帰的に定義されたものというイメージの「両方」があるのでしょう。前者を「新しい演算」とおっしゃっていると感じていますがいかがでしょうか。それは「かけ算」という「演算」の一側面にすぎません。そして前者から後者も,その逆も「導けない」。両者が「かけ算」を豊かにしているとすれば,一方を排除するのはどうなのでしょうか?

==============(引用終)===============


 私の理解が及ばないところがあるのですが、「後者関数」ということでイメージされているのが「数えること」、「加法から再帰的に定義された」でイメージされているのが「累加」だと理解すると、かけ算を積のイメージで捉えることは、「数えること」や「累加」を包摂していると考えています。

 次の通りです。

「キャラメルが3個ずつのっているお皿が4枚あります」という文で表現される事態があるとします。こういう文で表現されるということ自体に、すでに表現する者のある恣意が含まれてしまうのですが、それは、この事態(皿にキャラメルがのっている)をもたらした人間の行為の意図を汲んで、事態を表現してしまうからなのですが、遠山啓は、事態を記述するときに人為を避けるために、先ずは、「うさきが3匹います」というような自然の事態から、「うさぎの耳は全部でいくつありますか」と問うべきだと主張していますが…。

 それはさておき、キャラメルの総数が問われるとすると、答えは、次のように導かれると思います。


(1)キャラメルをひとつひとつ順番に数える。

□□□□□□□□□□□□

1,2,3,4,5,6,7,8,9,10,11,12

 (ここで、お皿の上にのっているものを、なぜミカンやおまんじゅうではなくキャラメルにしたのかの、私の恣意を理解してもらえると思います。正方形タイルにつなげたいのだな、と。)


(2)累加で求める。

□□□ □□□ □□□ □□□

 3 + 3 + 3 + 3

 キャラメルを1枚のお皿に乗っている個数に分けて足し算をするわけです。この場合は累加になります。


(3)かけ算で求める。













 

3×4

 3個ずつ一列(1次元)に並んでいたものを、縦横(2次元)に並べ直すわけです。

 正方形のタイルをぴったりくっつけて描きくのが、数教協のタイル図です。

 かけ算で計算するわけですが、かけ算の導入は、

(1枚あたりのキャラメルの個数)×(お皿の枚数)=(キャラメルの総数)

 3個/枚 × 4枚 = 12個

と、被乗数と乗数に意味の区別を考えて教えられます。(2)の図の□の数と____の数に注目するわけです。しかし、上図のように□を並べかえると、____は明示されない。キャラメルの数が必要なのですから、お皿の数は必要なくなります。この図になると、縦横をどの方向から見ても良いわけですから、被乗数と乗数に意味の区別もなくなります。


 つまり、(1)→(2)→(3)と考え方が発展してきたわけで、(3)の考え方は、(1)や(2)を含んでいるし、必要ならばいつでも還元して考えられると思うのです。


 数教協のタイル図は、338発言で紹介したように、正式には左側に「1あたり量」のタイル図を示し、下側に「いくらぶん」を示すようですが、数教協ファンの私でも、これはいかにも煩わしいと感じてきたのですが、今回、この煩わしさの原因が分かりました。

(1あたり量)のタイル図には、(1つぶんの数)の母斑を残しているし、そのように理解されてもしかたがない面があるということです。


 現在、小学校でのかけ算の教え方は、585番発言で紹介したように、

(1つぶんの数)×(いくつぶん)=(全部の数)

です。この式は、数教協の

(1あたり量)×(いくら分)=(全部の量)

につながっていく要素もあります。私も、はじめ、数と量の違いに注意せず、同じものと理解してしまった…。しかし、同時に、

(もとになる数)×(整数倍)=(もとめたい数)

という「倍」の考え方や

(同数)+(同数)+(同数)+(同数)=(全部の数)

という「累加」の考え方の母斑も残しています。

かけ算を、「(1つぶんの数)×(いくつぶん)」として導入することは妥当だと思うのですが、この考え方には、いろいろな考え方が未分化に入っていることに注意する必要があるとあらためて思った次第です。


数教協が、(1あたり量)×(いくら分)をタイル図で示すときには、縦を(1あたり量)、横を(いくら分)にするわけですが、そこで示された(全部の量)を表す長方形だけを取り出せば、縦横を逆にすることも出来る。

 ここのトピでも議論されたように、トランプ配りを考えれば、(1あたり量)と(いくら分)は交換可能です。どちらがどちらかと考えることは意味がなくなる。かけ算とは、端的に2つの量の積と考えられます。加法や減法とは違う新しい演算として(子どもは)認識できます。

 かけ算のキーワードは、「1あたり量」ではなく「面積」だ、と言うと、言い過ぎになります。遠山啓が「1あたり量」を力説したのは、比例定数につながることを見据えていたはずです。(今、とっさに出典が思いつかないが)

 しかし、かけ算の本質を、面積図と理解しようが、比例と理解しようが、二次元に関わるものという理解では共通します。

 私(たち)が、かけ算の導入段階を過ぎても「1つぶんの数といくつぶんの区別」を言いつのり、式の順番にこだわる先生にいらつくのは、二次元が展望できた(小学2年生には、九九の表でしかないかもしれないが)ときにも、一次元(累加)の考え方に引き戻されるからでしょう。センセー、どうして先に行っちゃいけないの?……とは言いつつ、私自身のここ十数年の関心が歴史に向かい、概念の起源を記述する出典に出会い、現在の私たちの概念を相対化したいと思っているのは、無暗に先に行っても足元が覚束無ければこけるだけだと思っているからなのですが…