数教協こそ「式の順番」の犯人?? | メタメタの日

 いつから誰が、かけ算の式の順番にうるさくなったのか。

 Sparrowhawkさんは、昔から私たちも、初めはそうやって教わってきたのに、算数・数学の勉強が進むにつれて、それを忘れていった、それがこの「指導」方法の完成ではないのか、という「仮説」を立てられていると思いますし、積分定数さんは、うるさくなったのは、ここ10数年のことで、1972年の朝日新聞の報道は、当時はそれが珍しかったということではないのか、と主張されていると思います。


 私は、この問題の歴史的経過については、積分定数さんの考えに賛成です。

 72年の報道まで、この問題は問題になっていなかった。

 「問題でなかった」というのは、それ以前から式の順番をうるさく教えていたのだが、誰もそれをおかしいとは思わず問題にならなかった、ということではなく、そもそも式の順番になどうるさくなかった、ということです。

もしも文部省が以前から式の順番についてうるさく指導していたら、50年代最初に結成され、文部省や学校の算数・数学指導を批判してきた数教協がそれを批判しないわけはないのです。この問題については文部省と数教協が同じ意見だったので、数教協も問題にしなかった、という可能性も考えにくい。72年の遠山啓の文章は、式の順番にこだわるのはおかしいと言っているわけですから。

文部省ではなく数教協こそ「式の順番」にこだわり出した犯人ではないのか、という疑念があります。

確かに、遠山啓は、72年の「4×6、6×4論争」では、順番にこだわることを批判していますが、それは、「1あたり量」を4とみることも6とみることも可能である、という観点からで、「1あたり量」を先にすることは前提であるように読めます。(参照http://math.artet.net/ )連続量の内包量については、はっきりそう書いている文章もあります。(Sparrowhawkさんのご教示)

遠山啓にしろ数教協にしろ、

(1あたり量)×(いくら分)=(全部の量)を、

(いくら分)×(1あたり量)=(全部の量)

と書いている文献は見当たらない。数教協関係の文章で、この公式についても交換法則が成り立つことについて注意を喚起しているものはあるのだろうか。どうも、式はこの順番で書くべきで、実際の数値で計算するときは交換法則を活用していい、と考えているのではないだろうかという疑念が消えない。例えば、3個/人×875人と、式としては書くべきで、計算するときは、筆算なら、875×3と1位数をかける数にするように。


つまり、数教協の「量の体系」が算数指導に広まるにつれて(それ自体は、私は大賛成なのですが)、それを文字通り公式主義的にとらえる先生も出てきて、(1あたり量)×(いくら分)の順番で式を書いていないと×を付けるようになったのではないか。



 というわけで、

(1あたり量)×(いくら分)=(全部の量)

として、かけ算の意味を導入すべきだという「量の体系」の考え方が、かけ算の式の順番にうるさくなった大きなきっかけではなかったかという疑念が去らないのですが、「きっかけは量」だとしても、順番が違うとバツを付けるという現状は、「量の体系」とは直接の関係はないでしょう。量の考え方に無縁な先生や市販テキスト類も、式の順番にこだわっているようですから。

 たとえば、TETRAS MATH「数学と数学教育」http://math.artet.net/  で知った次のブログの先生は、量の体系とは無関係の教え方をしながら、式の順番にはうるさい。

http://anothertrack.hp.infoseek.co.jp/others/0028.htm

http://anothertrack.hp.infoseek.co.jp/others/0029.htm

===============(引用初)==============

「みかんが3個ずつ4枚のお皿に盛ってあります。みかんは何個あるでしょう。」 

という問題であれば、必ず「答」はかならずみかんなわけですから、「かけられる数」もみかんになります。つまり、立式した時に単位も書くと、「3個×4枚=12個」になります。つまり、「かけられる数」を「答」の単位は同じになるということです。こんなことをくどくど言っても2年生の子供には分かりません。そこで、こんなふうに言います。

「かけ算は、後ろと前で、単位がいっしょです。サンドイッチになるように書いてください。」

===============(引用終)==============



「みかんなわけです」という国語表現にも「びっくりなわけ」ですが、「3個×4枚=12個」という式は、量の体系ではしない。「3個/枚×4枚=12個」とするわけです。したがって、「『かけられる数』と『答』の単位は同じになる」ということはない。だから、「かけられる数」と「答え」の単位がいっしょ、「サンドイッチになるように書いてください」などという教え方は、量の体系では絶対しない。

本人も「算数研究専門家の関係者の方々からすると邪道と言われるかもしれませんが」と書いているが、邪道でも目的地(かけ算の正しい理解)に着けば良いが、この方法ではかけ算を誤解するだろう。

とはいえ、こういう教え方が出てくる根拠はある。

日本語の日常的使用方法(国語的意味)では、かけ算の意味は、「掛け」と「倍」でしょう。

七掛、八掛というのは、×7、×8ではなく、×0.7、×0.8という小数倍の意味です。

また、国語で「5をかける」というときは、「5倍する」ことと同じです。

国語的用法・意味では、かけ算は、次のように理解されているでしょう。

(もとになる数)×(かける数)=(求めたい数)

(もとになる数)が(かけられる数)になるわけです。



算数・数学におけるかけ算の意味・用法とだぶるところもありますが、国語的用法の特徴は次のようになるでしょう。

① 対象は、数であって、量ではない。

②(かける数)は、「掛」か「倍」つまり単位がない無名数。

③ 倍のときは、かけ算は、累加の簡便算。

④(かけられる数)と(求めたい数)は単位が同じ。(かける数)が無名数だから。

⑤(かける数)を後から(かけられる数)にかける。

⑥ 式(考える順番)は⑤の通りだが、計算は逆にしてやってもいい。

⑦ 式と計算は区別しない。(かけられる数)が6で(かける数)が4のとき、6×4の式が正しくて、4×6が間違いとは考えない。



以上の国語的意味のかけ算は、明治時代初めのかけ算観でもあったのです。

明治初めの優れた算数の教科書『筆算訓蒙』(明治2年)は、かけ算について以下のように述べています。私は、『日本教科書大系 近代篇第10巻 算数(一)』(講談社、1962年)で読んでいるのですが、原本は、国会図書館の「近代デジタルライブラリー」から読めます。

http://kindai.ndl.go.jp/BIImgFrame.php?tpl_wid=WBPA130&tpl_wish_page_no=1&tpl_select_row_no=1&tpl_hit_num=2&tpl_toc_word=&tpl_jp_num=40052076&tpl_vol_num=00001&JP_NUM=40052076&VOL_NUM=00001&KOMA=25&tpl_search_kind=1&tpl_keyword=&tpl_s_title=%C9%AE%BB%BB%B7%B1%CC%D8&tpl_s_title_mode=BI&tpl_s_title_oper=AND&tpl_s_author=&tpl_s_author_mode=BI&tpl_s_author_oper=AND&tpl_s_published_place=&tpl_s_published_place_mode=ZI&tpl_s_published_place_oper=AND&tpl_s_publisher=&tpl_s_publisher_mode=ZI&tpl_s_publisher_oper=AND&tpl_s_nengou=AD&tpl_s_published_year_from=&tpl_s_published_year_to=&tpl_s_ndc=&tpl_s_ndc_mode=ZI&tpl_s_heading=&tpl_s_heading_mode=ZI&tpl_s_heading_oper=AND&tpl_s_jp_num=&tpl_s_toc=&tpl_s_toc_oper=AND&tpl_item_oper=AND&tpl_sort_key=TITLE&tpl_sort_order=ASC&tpl_list_num=20&tpl_end_of_data



「乗は、俗に掛算といふ、同数の和を求むる法にして、加法に原づきて、其更に簡便に施すべきものをいふ、乗の標識は、×を用ゆ、(中略)

乗者()原数あり、これに某数を掛て、某総数を求むる事にして、其原数を実と称し、掛くる所の数を法といふ、其得る所の総数を得数といひ、又積と称す、

其実数は必()名数にして、法数は姑(しばら)くこれを不名数と見て可なり、其得数は、必す実数と類を同して、其同名数なり、」

 そして、この後、「暗記すべし」として、「一一如一」から始まる片九九の表が続きます。

これが、明治初めの、江戸時代から続く、かけ算の国語的意味であり、当時は算数的意味でもあったのでしょう。「サンドイッチ」先生の教え方にも国語的・歴史的根拠はあったのです。

しかし、量の体系に基づく現代の算数のかけ算観としては、このままでは通用しません。特に、「かける数」を「姑く」(読みが「しばらく」で、意味が「とりあえず」であることは、首相ではないが分からなかった)無名数とすることは、現在の算数では、「倍」の場合だけである。



ともあれ、国語的には、こういうかけ算観が私たちの下地にある上に、算数でかけ算を学ぶわけです。

 東京書籍の小2教科書の導入で、

「1つぶんの数」×「いくつぶん」=「ぜんぶの数」

と、子どもが教わるとき、いや、そう教える先生の側も、この「1つぶんの数」について「1あたり量」に発展していくものと理解しているか、倍される「もとの数」のように理解しているかは、未分化だと思うし、それはしかたないところもあると思うのです。