日本で食塩水を初めて混ぜたのはいつだったのか | メタメタの日

 受験算数で、濃度の違う食塩水を混ぜる問題が定番になっています。現在、解法としては、「天びん」が主流のようです。そして、この天びん法の創始者の権利をめぐって小さな異論がちょこっとありました。

http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=32539914&comm_id=3059833

 

 食塩水の問題はいったいいつからあったのだろう、その解き方はどんなものだったろうと気になって調べ始めた中間報告です。

 江戸時代の和算に食塩水の問題が無かっただろうことは確かだと思われます。百分率が無かったということではなく(歩合はあったのですから)、濃度という考え方が無かっただろうということです。速度という考え方も、江戸時代には(厳密な意味では)無かったのですから、内包量一般に対する考えが無かったと推測されます。

植木算が江戸時代には無かったことから、連続量と分離量について、江戸から明治にかけての数量観の変遷を調べてきた(来年4月に本になります。乞うご期待!)のですが、次の主題は、外延量と内包量についての変遷かな、と思っているところです。


いろいろなことが分かりかけました。

(1)江戸時代に濃度が無かったということは、「平均」の考えが無かったということです。それは幕末の開国で、西洋から入ってきた考え方でのようです。もちろん、濠を掘った土をある面積に積むとどれだけの高さになるかというような「均す」という考え方は、江戸時代にもありましたが、複数の異なる数値の「平均」を求めて、その平均値が元の複数の数値とは別のある意味を持ったものとして考えられることはなかった。したがって、そもそもそういう計算もしなかった。少なくとも、江戸時代の文献の中に、今のところ私は見つけられていません。


(2)濃度の問題は、戦前の受験算術では「混合算」とか「混合法」と呼ばれていた。そして、驚くなかれ、その解き方は「天びん」であった! ただ「天びん」という名前ではないし、天秤の応用とも思われていなかったが、考え方の基本は、天びんと同じです。

 大正14年(1925)の『受験的研究の算術』(受験研究社)によれば、次のようなものです。

 「問題 水と酒精との混合液二種あり、甲液は90%の酒精を含み、乙液は40%の酒精を含む、今この両液を混じて酒精分70%の液を作るには両者如何なる割合に取るべきか。」(かなは原文はカタカナ)

 答 甲:乙=3:2

 解き方は、こうです。天びんの図は横に書くでしょうが、縦に以下のように書きます。

        |90  |20過   |3

平均  |70  |       |

        |40  |30不足  |2 


 正に、「天びん」です。


(3)戦前の昭和や大正時代の「混合算」は、明治時代には「和較比例」という名前だった。

 正比例、反比例(転比例)、複比例、連鎖比例、按分比例など、比例の考え方が洋算として入ってきたときに、和較比例(後の混合算)も入ってきたのだが、解き方は、最初から、「天びん」だった。その解き方の呼び名が「天びん」ではなく、「和較比例」だったのです。

 明治10年の『商家必用算法損益和較集』によれば、こうです。

(国会図書館の近代デジタルライブラリーで読めます。http://kindai.ndl.go.jp/BIDtlSearch.php  )

 問題は、1升12銭の上酒と1升7銭の下酒を混和し、1升9銭の中酒を製したい。各々の混和量を求めよ、というものです。答は、上酒2升、下酒3升。

 やはり、以下のような「算式」を書いています。

     |12   2

   9 |

     | 7   3

 そして、なぜこのやり方で良いのか、上記のライブラリー所載の出典46コマ中の24コマ目で説明しています。


(4)明治の「和算比較」でも、戦前の「混合算」でも、混ぜるものとして問題に出てくるのは食塩水ではなく、酒やお茶や米などだった。求める平均も、濃度ではなく値段が多かった。いったい、いつ食塩水が問題に出てきたのかと、「重箱の隅」が気になった。この場合、重箱の隅を突付いても、これ以上の大発見につながるとも思えないが、気になりかけたので、調査続行中なのですが、国会図書館が年末年始休館に入ってしまった。

 現時点で判明しているのは、昭和2年に刊行された『試験問題講義算術之部』(長沢亀之助著)に収められた大正6年から昭和1年までの入試問題の分野別過去問集に「混合法」が9問載っているが、食塩水の問題は無い。

 昭和13年に刊行された『正攻算術』(瀬尾徹述)の「第4編比及比例 第4章比例の応用 (3)混合法」の中の例題5に「25%の食塩水に水を如何なる割合に混合すれば13%の食塩水を得るか」という問題があり、上記のような縦書きの「算式」を書いて、海水13、水12の答を求めている。

 つまり、昭和2年と昭和13年の間に、日本で食塩水を初めて混ぜた問題が出題されたのだろうというところまでは絞れた・・・・しかし、おれは、いったいなにをやっているんだろう、という根底的な疑問が生じないわけでもない年の暮れであった・・・・


(5)さて、「天びん」と基本的には同じ解き方が、明治時代から受験算術として知られていたのに、何故、戦後の1970年代中頃(昭和50年前後)?に再発見されたのか、ということが新たな疑問として浮上しました。

 私の現在の仮説はこうです。

 戦後、しばらく中学入試で食塩水を混ぜる問題は出なかった。昭和35年の開成中学の入試で食塩水の問題が出ていますが、次のような説明が問題文中にあります。「『こさ』が5%の食塩水というのは100gの食塩水の中に食塩が5gの割合でふくまれているものをいいます。」

 こういう説明をわざわざする必要があったということは、食塩水の問題は、説明無しで出題できるほど当たり前の問題ではなかったということでしょう。なお、この年、全国では、他に4校ほどで食塩水の基本的な問題が出題されていました。

 また、昭和31年刊の『全科の実力』(受験研究社)でも、昭和33年刊の『全国中学入試問題集』(文英堂)でも、「応用問題の解き方」の中に、平均算、植木算、和差算、つるかめ算、旅人算などはあっても、食塩水の濃度の問題は見当たりません。

 つまり、食塩水の問題は、1960年(昭和35年)前後からポチポチ出題されるようになり、だんだんと難しくなっていった。その解き方は、手堅く食塩の量を求めていくか、線分図や面積図を利用するものであった。つまり、戦中・戦後の10数年間の中学入試で食塩水の問題が出題されなかった内に、戦前の「混合算(和較比例)」の解法が伝承されるルートが途切れてしまったのではないか。

そして70年代半ばになってから、坂本先生によって「天びん」が「創始」された。

http://www.e-juken.tv

  明治の和較比例、大正・昭和の混合算、そして戦後の食塩水では、問題のポイントの置き方が違うところがあります。例えば和較比例では、4種類もの酒を混ぜて答が1通りにならない問題があるし、食塩水では、何回も食塩水を入れ替えたりする。

 これに伴い、基本的な考え方は同じでも、和較比例と天びんでは、使い方に違いが出てくるところがあるようです。