『カラマーゾフの兄弟』 | メタメタの日


5日間かけて、亀山郁夫氏の話題の新訳『カラマーゾフの兄弟』全5冊を読む。

中公の「世界の文学」で、池田健太郎訳で読んだのが高2の冬休みだったから、41年ぶりとなる。10代で読んだ本で、死ぬ前に再読したい、せねばならないと思っているものは何冊もないが、間違いなくその筆頭が『カラマーゾフ』であったから、40年間の思いをなし終えたと思ったら、なんだか後は死ぬだけか、という気にもちょっとなった。(けれど、この再読が仕事がらみだということが、40年の間の予想にはなかったことで、幸せなことだと思う。)


高校生の知的生意気盛りに読んだときは、「大審問伝説」に圧倒された。この頃、私は出家しようと思っていて、出家したら、ドストエフスキーなどは読めないと思っていたから、出家する前に「大審問官伝説」を読めたのは幸せだと思った。

今回、あらためて読んだら、「大審問官伝説」は、『カラマーゾフ』の白眉でも、ドストエフスキーの真髄でもないと分かった。「大審問官」は、全4部の第2部で語られるのだから、決してこの作品の結論部分でもないし、これを語ることで存在感を示した次男イワンが、この後、醜態を晒すことになるのだが、高校の頃それは印象に残らなかったようだ。知的に優れた人が、その基盤を揺るがされて精神に失調を来たすわけで、法廷でのイワンの振舞いに、東京裁判での大川周明の狂態が二重映しになった。


ドストエフスキーにとっては、「大審問官」という知的スペクタクルも、ワンノブゼムに過ぎないというのが、彼の凄さだ。「大審問官」は、スターリン批判の先取りであり、ある意味では社会主義批判の先取りとも読めるが、それすらドスト世界の一部でしかない。社会主義批判の批判すらドストは射程に入れていたのではないか。

この作品のテーマは「父殺し」であり、予定していたのに正編完成直後に没したため書かれなかった続編のテーマは「皇帝殺し」であったと、亀山氏は『続編を空想する』で述べているが、「父殺し」は中上健次のテーマであり、「皇帝殺し」を遂行する革命的宗教結社は、大江健三郎後期のテーマであり、ドスト世界は、中上と大江を含んでいるわけだ。


で、「父殺し」「皇帝殺し」とくれば「神殺し」も想定したくなる。

実際、小説では、長男ドミトリーが「父殺し」に関わり、次男イワンが「神殺し」に関わっている。とすれば、続編の「皇帝殺し」には、三男アリョーシャが関わるのも当然と思えた。ただ、ドミトリーが実際には父を殺さず、イワンが神を殺そうとするのも創作劇の中であったのだから、アリョーシャも皇帝殺しの実行犯にはならないだろうと思う。この点でも、亀山説に納得できる。

そして、ドミトリーに父殺しを思い止まらせたのが「母のイメージ」(赤子のときに母を亡くし、知らなかったのに)であり、イワンの代わりにキリストを殺す(実際は殺さないが)のが老いた大審問官であるように、アリョーシャの代わりに皇帝を暗殺する(失敗するという設定のようだったが)のは「少年少女たち」となる。

父/母、キリスト/大審問官、皇帝/少年少女。

そして、三兄弟をとりまく三人の女性の相互の絡みあい。

脇役ひとりひとりの存在感の確かさ。

流れるような会話。ページを繰るごとに思いもかけず、しかし納得せざるをえない展開を示す人間の心の不思議。

ドストエフスキーは凄い。