さて、で、救命ボートの思考実験を再考します。
私個人が、2人のうちどちらかを選択できるのなら、石原都知事とホームレスの場合は、ホームレスを選ぶことは、以前書きましたが、社会的な選択(社会的価値観)は、石原都知事を選ぶと思います。東京都民は、石原氏を都知事に選んでいるのですから。
しかし、その選択(価値観)は、あくまでも社会的な相対的価値観からのものであり、死という絶対的なもの(死が絶対的なものとはどういう意味かという問題はありますが)を前にしたときの選択として、絶対的価値観からも、同じことを主張できるのかといったら、そうはならないと思うのです。
(というか、絶対的平等を言明するものとして絶対的価値観を定義しているのですから、論述がトートロジーっぽくなっているなぁと反省するのですが…。)
絶対的価値観からは、赤子も都知事もホームレスも平等です。平等にゼロです。どちらかを選ぶべき必然性はないから、じゃんけんやくじ引きという偶然性に委ねることが正解ということになるでしょう。
しかし、相対的価値観からは、たいていの組合せでは赤子を選ぶことになるでしょう(赤子の価値は無限大)。石原都知事も負けるでしょう。赤子が最強の存在者です。(江戸時代の間引きの慣習は、間引きせずに親が死んだら、保護者を失った赤子も生存できなかったという条件を考慮する必要があるでしょう。)
では、仏陀(菩薩)が選択の組合せに入っていたら…。仏陀は自ら身を引くでしょう。でなければ仏陀ではないのですから。菩薩の定義は、自らの救いより他の救いを先にする者のはずです。つまり仏陀(菩薩)が最弱の存在者となります。(イエスが弟子の足を洗ったというキリスト教も同じように考えているのかもしれません。)