「意味」と「価値」 | メタメタの日

 「意味」と「価値」という言葉を使い分けることがあります。


 個人にとっての価値が意味であり、社会で共有される意味が価値である、と考えています。

意味が意味として共有される範囲を「共同体」と呼ぶ。

親子関係は、価値の関係ではなく意味の関係である。親の務めを果たさない(=親の価値の無い)親も(意味としては)親である。

子ども時代のぼろぼろになった人形は、その個人にとっては意味があるが、社会的には価値がない。

アイドルのお宝写真は、アイドルのファンの間では「意味=価値」があるが、ファンでない者にとっては価値がない。お宝写真の「意味=価値」を共有する範囲が「アイドル共同体」である、などと、「意味」と「価値」を使い分けています。


 価値についても2通りの使い分けがある。

1.「法の下の平等」「能力の差」「社会的不公平」「経済的格差」などと言うときの「相対的価値」。

2.「神(仏)の前の平等」などと言うときの「絶対的価値」


 mixiトピの設題の「平等」を、私としては、2の「絶対的価値」の意味で言ったのですが、ほとんどの方は、1の「相対的価値」の意味で反論・批評されていました。

 それはやむをえないことで、「価値」という相対的評価について、絶対的なものからの絶対的評価について云々することがパラドックスであったのかもしれません。

 それに私自身、絶対的平等という「客観的真理」は、人間の「主体的実践」の如何に関わらず成り立つなどと言っていたのですから、そのような「客観的真理」は「主体的実践」の基準にはなりえないわけですから、「平等である」という真理と、「向上をめざせ」という実践とは、ちがう次元における言明なのだから、パラドックスではなかった。


 つまり、トピの自問への自分なりの納得しうる自答はすでに書いたのですが、もうひとつ、次のような答えもありると、今日思いました。


 「人間は平等である」というときの価値観は絶対的価値観であり、それは人間の実践(努力)とは全く無関係である。だから、人間は相対的価値観の価値を高めるよう努力すべきである。