『指環』と『指輪』 | メタメタの日

映画『ロード・オブ・ザ・リング』の第1部を見たとき,大いに期待した。

単純な「勧善懲悪」ではなく,善人の中の権力欲が描かれている。また,これは,主人公フロドの成長を描くビルドゥングスロマンであり,『ニーベルングの指環』なら第3部『ジークフリート』にあたるものなのだろう,と。

期待は裏切られた。


『指環』について


ワーグナーの『ニーベルングの指環』全4部は,図書館からビデオを借りて見た。

まさか自分がオペラを見て感動する人間とは思っていなかったが,最後の最後,恋人ジークフリートを失ったブリュンヒルデの絶唱で泣いてしまった。シェロー演出版で,彼の演出が卓越したものであることは,浅田彰が放送大学のテキスト『演劇を読む』で述べているのを知った。

ブリュンヒルデは恋人を失った悲しみを綺麗綺麗に歌うのではない(そういう演出も見たが)。正に怒りの絶唱であった。歌い切ると,権力の象徴である指環をライン河に投げ捨て,燃え盛る神々の城に身を投げる。その経緯を,野良着と労働服姿の群集が見守り,幕が下りる直前,群集が観客席を見返す,という演出に唸ってしまった。


『ニーベルングの指環』は4部構成になっている。

第1部(序夜)は『ラインの黄金』。

神々族と巨人族と小人族(ニーベルング族)の3つの種族が登場する。

神々の王ヴォータンは,巨人族に神々の住む城の建築を依頼し,代償として若い女神を与えることを約束する。小人族のアルベリヒは,愛を断念する替わりに世界を支配できる黄金を,ラインの乙女達から手に入れて,指環をつくる。ヴォータンは,アルベリヒからその指環を奪い,女神の替わりとして巨人族に与える。巨人族は指環をめぐって争いを起こす。

3つの種族は,3つの階級を比喩していると見た。神々は地主貴族階級を,城建築を請け負う巨人族はゼネコン資本家階級を,そして,地下で労働に従事する小人族は,プロレタリア無産階級のことであり,この楽劇は,権力をめぐる階級闘争を描いたワーグナーの『資本論』なのだろう,と。ワーグナー(1813-1883)がマルクス(1818-1893)と同時代人であることを確認した。


第2部(第1夜)は,『ワルキューレ』。

描かれるのは,愛の諸形態である。夫婦の愛,双子の兄妹の近親相姦愛,父娘の近親愛。

秩序に守られ秩序を保つ夫婦の愛は,2組(神々の王ヴォータンとその妻である結婚の女神,ヴォータンが人間の女性に産ませた双子の妹ジークリンデとその夫)登場するが,いずれも実のない偽りの愛として描かれる。真実の愛は,双子の兄ジークムントと妹ジークリンデの近親相姦愛であり,父ヴォータンと娘ブリュンヒルデの愛なのである。

妻(結婚の女神)から,不義を犯した双子の兄妹を始末するように言われたヴォータンは,それを娘ブリュンヒルデに命ずる。ブリュンヒルデは兄妹を救おうとして,父ヴォータンによって,炎の山の中に眠らされてしまう。


第3部(第2夜)は,『ジークフリート』。

青年ジークフリートのビルドゥングスロマンである。

ジークムントとジークリンデの間に生まれたジークフリートは,両親の死後,小人族のアルベリヒの弟ミーメに拾われて育てられている。ミーメは,ジークフリートを使って,巨人族から指輪を取り戻そうという思惑があった。

若者の成長には,父(師)を,あるいは敵(困難,ライバル)を克服することが必要である。ジークフリートは,3回の「父殺し」を行なう。養父ミーメを打ち倒し,大蛇となった巨人を殺して指環を奪い,そして,神々の王ヴォータン(ジークフリートの祖父にあたる)の権威の象徴である槍を折る。

恐れを知らぬ若者ジークフリートは,小鳥の声を聞く智恵も身に付けるが,炎の中に眠るブリュンヒルデの目を覚まして恋に陥り,はじめて恐れを知ることになる。

若者の成長に,最後に必要なのは,恋ということだ。小林秀雄も言った。「女は俺の成熟する場所だった。」(「Xへの手紙」)


第4部(最終夜)は,『神々の黄昏』

第1部「階級闘争」,第2部「愛の諸相」,第3部「成長物語」と,回ごとに趣向を変えてきた『指環』の第4部は,いったいどういうことになるのかと,興味津々で見た。第4部の趣向は,「近代心理劇」だろう。

ブリュンヒルデと永遠の愛を誓ったジークフリートは旅に出る。そして,最初の城で,忘れ薬を飲まされると,ブリュンヒルデのことをたちまち忘れて,城主の妹を好きになってしまう。ナニ,薬など飲まされなくても,人間の心などたやすく変わるものだ。

城主の異父弟ハーゲンは,小人族のアルベリヒを父とする。父から指環を取り戻すことを命じられて悩み,また異父兄の家臣に甘んじていることに屈折した心を抱いている。

ジークフリートは,城主の妹と結ばれるために,城主にブリュンヒルデを与えてしまう。ジークフリートの心変わりに絶望したブリュンヒルデは,ハーゲンに不死身のジークフリートの急所を教え,ハーゲンはジークフリートを殺す。最後に真実を知ったブリュンヒルデは,ジークフリートの遺骸を前に,怒りを絶唱し,指環をライン河に投げ捨て,燃え盛る神々の城に身を投げる。

『神々の黄昏』というタイトルにこそ神は現れるが,第1部から3部まで登場した主神ヴォータンは姿を見せず,ヴォータンの娘ブリュンヒルデは神性を失っている。ヴォータンの孫ジークフリートもたやすく薬にたぶらかされてしまう。

『神々の黄昏』に神々は登場しない。

ブリュンヒルデは,人間たちが愚劣な心情から神にも比する英雄を死に至らしめたことを怒るのである。


(『指輪』編に続く。)