とんでもない映画である。

ユダヤ人虐殺で悪名高きルドルフ・ヘス一家が、壁一枚隔てたアウシュビッツ所長宅で平穏な日常を暮らす。

しかし、ずっと嫌な虫の羽音のように、かすかな重低音が続く。

 

快適で豊かな暮らし。

庭にはプールがあり、色とりどりの花が咲いて、蜜蜂が蜜を巣箱に運ぶ。

父親への誕生プレゼントはカヌーで、家の近くには小川もある。

子供は5人、メイドや子守とおぼしき女性たちもいる。

 

しかしずっと続く低音に、時々人々の叫びや銃声が混じっていることに気づくと、もういけない。

新たに運ばれたユダヤ人から奪った着衣を平然と分け合い、高価な毛皮のコートのポケットから取り出した口紅を喜々として塗る妻。

快適な家の屋根の向こうには、ユダヤ人をシステマティックに「焼却」する煙突の煙がずっと見えている。

カヌー遊びの最中に、遺灰が流れ着いたり、庭の花々のために遺灰が肥料として撒かれたりしている。

久しぶりに来訪した妻の母親は、当初婿の出世を喜んでいたが、その異常な環境に突然帰宅してしまう。

長男はユダヤ人の遺灰から回収したらしい歯をもてあそび、弟をいじめる。

娘の一人は夢遊病のように家や庭をさまよう。

末っ子の赤ん坊は激しく泣き続け、その子守はおそらくアルコール依存症になっている。

時折白黒が反転した画像でリンゴを物陰に隠す少女の画像が挿入されるが、これはユダヤ人のために、食べ物をアウシュビッツの周辺に隠した実在の少女のことらしい。このリンゴを巡ってユダヤ人同士で諍いがあったことが、壁越しに聴こえてくる。その後の処刑も。

アウシュビッツの悲惨な状況は一切画像としては出てこないが、一家の暮らしが明るければ明るいほど、裏の悲惨さが際立つ仕組みで、その明るい平和な一家が少しずつ少しずつねじれて、どす黒いものが絞り出されていくのが心底怖い。

 

この映画から、今、この2024年の戦争のことを考えてほしいという意図をくみ取る人は多いと思うけれど、それをここに書くつもりはない。

 

「音」が主役の映画。ミサイル襲撃時のアラート音にも似た、嫌な音がずっと残っているので、スティーブハケットのギターアルバムでも聞いて清めようかと思ったが、それも違う気がする。

 

 

ストーリー
空は青く、誰もが笑顔で、子供たちの楽しげな声が聴こえてくる。そして、窓から見える壁の向こうでは大きな建物から黒い煙があがっている。時は1945年、アウシュビッツ収容所の所長ルドルフ・ヘス(クリスティアン・フリーデル)とその妻ヘドウィグ(ザンドラ・ヒュラー)ら家族は、収容所の隣で幸せに暮らしていた。スクリーンに映し出されるのは、どこにでもある穏やかな日常。しかし、壁ひとつ隔てたアウシュビッツ収容所の存在が、音、建物からあがる煙、家族の交わす何気ない会話や視線、そして気配から着実に伝わってくる。壁を隔てたふたつの世界にどんな違いがあるのか?平和に暮らす家族と彼らにはどんな違いがあるのか?そして、あなたと彼らとの違いは?
 

キャスト
クリスティアン・フリーデル、ザンドラ・ヒュラー

スタッフ
監督:ジョナサン・グレイザー
作品データ
原題THE ZONE OF INTEREST製作年2023年製作国アメリカ・イギリス・ポーランド配給ハピネットファントム・スタジオ上映時間105分