ある楽曲は一方で絶賛され、一方で批判される
ある絵画は一方で批判され、一方で絶賛される
ある書籍は…
エルヴィス・プレスリーしかり
ピカソしかり
誰も他人の頭の中に入ることはできないので
作り手の意図があった作品は、作り手自身から離れて
それを受け手が「自分なり」の解釈をして捉えます。
隣にまた別の人がいれば両者間で解釈が異なり、
これは変換する土台が異なれば、
おおよそに人は、それぞれの文脈で変換しているわけですが、
なぜこんな変換が起こるかというと
ヒトそれぞれ、生まれ育った環境も違えば
使う言葉の意味づけも違うため。
(意味づけの例:
「おはようございます」を使うシチュエーションを2通り考えてみてください)
(または、マジョリティに従いたいというサガ。多数と同意見なら安心する
これは別のお話)
英語日本語その他言語
異なる言語に限らず、同言語内においても
この文脈の変換が行われ続ける限り
"完全なる"意思の疎通はある意味難しいのかもしれません。
他言語においては、言語そのものが見た目すら違うため
そもそも「違う」という前提なのですが、
(これは "表面的に違う" ことを認識しているのであって、
「母国語に翻訳された時点で意味づけが現れる」 ので、結局は下記現象となる)
同言語においては、その認識がないため、
自分が使う言葉の意味づけと他人が使う言葉の意味づけが
同じであると信じて疑わない場合があるけど
実際違うことの方が多いわけで。
往々にしてそうして言葉が交わされ続ける限り
額面通り、にしか受け取らないでいれば
それ以上でもそれ以下でもない。
つまりはけっこう、表面的な認識のみになります。
ここからが、意図を読み解くところで
これはいわゆる以心伝心なんかとは違います。
客観視云々とも、はるかにかけ離れます。
螺旋ポテト