順智房・三毒日記 -2ページ目

順智房・三毒日記

ごくごく雑駁なものです。お目汚し。

だいぶ遅くなりましたが、恭賀新年。

今年こそ、国家的な凶事なく、平穏にと祈らずにはおられませんが、内政外交、地学的事象と不安。


さて、私事ながら、この年末年始は存外忙しい+金欠+鬱・過労でダウンで、25から6までよれよれ。

(26の講義、30・31の近しい限りの忘年会を除く)


その上、世間一般より、正月らしくない正月のしつらえになりました。

屠蘇省略、松省略、輪飾り省略・・・最低な(餅だけはなんとか)お飾り。

神仏の壇にも、貧乏からの不備を詫び。

節分・立春に遷してやらなきゃいけないことが少なからず。

・・・

でも、新暦の正月って、よく考えると何なんでしょうね?

節分立春は二十四節気でよいとしても。

本来、東洋文化圏では旧暦でやるべきなんじゃあ・・・「歳神」さまも、明治政府の都合に合わせてくれて、爾後、新暦正月にお運びになっているのか・・・心配です。


初詣は毎年恒例、未明早暁に浅草寺で一座勤行。三社様で礼拝。

帰ってきて、寝たっきり。

(これは観音様のなにではなく、こちらの不養生と周囲の言葉の「毒」)


今日から講義でまたエンジンかけなおしましたが、「黒い犬(鬱)」は厄介なものです。

新年から愚痴になりましたが、本年もよろしくお願い致します。

最近、学年後期のピークで忙しく。全く書き込めませんでした。

(読者のかたもあまりいらっしゃいませんが(汗))


過日は、教区部会の団参で、叡山→吉野→高野、とまわってきまして。

叡山は毎度のことながら、吉野は数年前に参拝した折の願ほどきの好機に、高野は初登山でした。

高野山は奥の院まで参詣しましたが、あの石塔の山はものすごい・・・・・・


御開帳・金峯山寺のすがすがしさ、叡山横川のきびしさ、高野山のにぎにぎしさ、

三者三様の「ありがたさ」です。


(合掌)

知人が、叡山横川(よかわ)の元三大師堂におまいりして来てらしい。

聞くところによれば、堂の尼僧いわく「まだお若いし・・・」「また何か困られたら・・・」と。


100%ミーハー観光客と思われた模様。なにやら立腹していた。

が、実際、そうそう困ったこともなかったようで、尼僧の観察眼の勝ち。


この元三大師堂、東京浅草寺はじめ、仏教系寺院のかなりで用いられている御神籤である

「観音籤」「元三大師観音籤」の総元締めというか、創始者に目される人物の祀堂である。


ここでは行として御籤を扱っているわけで、軽々しくお伺い・・・ガラガラ・・・

とは(少なくとも小生は)やれない、畏れ多いところである。

(ひどいのが出たら立ち直れない・・・)


もともと、この元三籤の頂戴の作法をちゃんとやれば半日はかかろうか、というもので

「ガラガラ、ポン」ではない修法であるし、籤の内容も実はかなり難解・・・


大事なことがあっても、元三大師堂で御籤をとるのは・・・・・怖い(←臆病)。






今日(もう昨日)は、東京市自治記念日であった。

明治31年、東京市も、市会の選出した市長を推戴することが可能となったのを記念した日である。

(現在の「都民の日」)

直接の公選市長ではないものの、官選府知事の兼任から、東京市が「自治」に一歩前進した日である。この日の意義を現在、少し深く考える必要があるのではないだろうか。


公選首長となって、より「自治」が強化されたものの、今日日の実態はどうだろうか。

コメディアン的放送作家、三文右翼小説家、西の方では似非ファッショ芸能人弁護士・・・こういうのを公選する市民に、「自治」の資格があるのだろうか。

残念ながら、こうした堕落した為政者の出現は、空き地に生じるような雑草のようではではなくして、市民が票を投じた結果のもの、種をまいているものである。斯かる「有名人」投票に長きにわたってうつつを抜かすようでは、自治を行う市民の資格に欠けるといわれても仕方ない。


また、その首長に期するものも「性格」などの項目が多いが、何を以てして、現都知事や、現大阪市長に、「性格」なるものを期待するのか、理解に苦しむのである。両者に共通なのは、人の痛みのわからぬ、虚勢を張る人物にすぎぬということである。

我が国において、ファシズム(我が国の戦前のそれではなく、欧州の)の台頭の過程を歴史から学ぶことが現在ほど重要と思われる時代はない。


「東京市自治記念日」にあたって、ひとこと備忘としたい。

畏友がウィーンから帰ってきた。やはりハプスブルクの帝都だけあってただものではないらしい。

すべてが、奇をてらわず、普通でありながら、そこにあり続ける。

「普通」に、齢を重ねる、センスと秩序。


この二つ、見事に日本にかけているのが情けない。

ものを作れば「奇をてらい」、齢を重ねるべき維持もしない。

本音と建前は、かつては日本を揶揄する言であったが、本来は成熟した「あそび」のある社会に使うべき言葉だろう。

誰も通らない赤信号。これを待つのは「遵法」なんだろうか。

友人は、ウィーンのリンクで、適当に道を渡る市民の真似をして、市電にひかれそうになったそうだが(笑:実際には警笛を鳴らされただけのよう)、制度を過剰に「遵守」する頑なさ、その反面で全く守るべき実が無くなっている、という社会。欧州の成熟はこの真逆をいく豊かさがあるように思う。