昨夜から調子が悪かった。
朝、目が覚めると気分が悪く、すぐに吐いてしまった。
洗面所を掃除している間に、2度も吐いた。
鏡に映る自分は、歳を取り老いかけた男である。
身体表現性障害になって、もう何年になるのだろうか?
自分自身が覚えていないのだから、それほど深刻なものでもない?
でもない。
実際、ようやく仕事にまともに行きだしたのは最近のことで、
それまでは数日ないしひと月単位で休んでは出勤しを続けてきた。
上司もたまりかねたのだろう「もうこれ以上は他の社員の心身衛生上よくないので」と、
釘をさしてきたばかりである。
吐きながら頭痛とめまいが襲ってくる。
あまりの頭部の痛みに立ち眩みするほどである。
ピントの合わない薄暗い視線で部屋を見ると、
亡くなった母の姿が一瞬見えた気がした。
「死んでしまいたい」
鬱病になってから何度そう考えたろうか?
実際にリストカットや劇薬物を飲もうとしたこともあった。
ただ気がかりなのは、残した妻と子供のことだけである。
自殺なんて近所に知れ渡る時間など数時間である。
肩身の狭い思いを彼女にさせてまで死を選ぶことが有効なことだろうか。
そう自身に言い聞かせて何年も生きている。
生きているというのは辛いことだ。
辛いことばかりではないと人は言うが、私はどんなに些細なことでも感謝し
嬉しいことと置き換えて暮らしてきたが、総体的には辛いが先行している。
しかしそう思うようになったのは、この病気になってからで、
若い頃は辛いなんて感じたことがなかった。
どんなことにも積極的行動的で、理屈ばかりの人間とは争うほど元気だった。
それが今では年下に頭を平気で下げるようにまでなってしまった。
人間の形をした、ただの生物のようである。
医師や側近の者は「明日を考えずに今日をしっかり生きよう」
口で言うのは簡単であるが、もちろん今日は懸命に生きている。
いろいろな理不尽を受け入れながら懸命に生きている。
終日になれば明日の姿かたちが現れてくる。
そうすると心身が抵抗を始めてしまう。
察知するのはいいことだと思うのだが、拒絶反応がよくない。
だから明日の事は考えずにということだろう。
でも考えてしまうものなのだ。
思考を停止する術があるなら伝授していただきたいところだが、
そんな都合のいい技があるわけでもなく、今日もやはり何気なく自然に、
明日の事を考えているのである。こうしてキーボードを叩いていても。
暗闇がどこまで続くのかはわからないが、
せめて雨が降るのか降らないのか?それくらいで止められる思考を持ちたいものである。
画像はYahoo!さんより