女優の小雪さんが、韓国の産後ケア施設でケアを受けた後に未払い等の問題で
揉めるというニュースがありました。
正直言って、出産間近の女性がわざわざ他国へ(しかも反日国家)行って出産する
という奇妙で不可解な選択も、その真意がよく分かりません。
周りの妊娠中の女性陣の大半は、日本国内ですら、普段からよく見てもらっている医師に
かかって、なるべく安心できる環境で子供を産みたいと切望し、神経をとがらせているのに。
まぁ、それはともかくとして、先日友人から、ある講演会に参加した際に聞いた海外を転々と
していた韓国人女性の話を教えてもらった。(ちょうど、スンドゥブを食べていたから 笑)
その女性によると、「日本人はよそよそしく冷たい」と感じたそうだ。
理由は、友達になった人とご飯を食べていて、友達のご飯が美味しそうだったのでサッと手を
出して貰ったら、怪訝そうに見られたからだと言う。
彼女は続けて、「韓国では、友達や家族になった人とは物やお金を共有するのが当然で、
例えば、何人かでご飯を食べに行っても、お金をたくさん持っている人が払うのが当たり前
」なんだそう。
まさに「知らねーよ」である(笑)
オレは、真に自国を愛する人間は、他国の文化に対しても寛容であるべきだと思って
いるし、しかし、その上でそれらの受容には慎重になるべきであるという持論がある。
その、互いの文化の違いを尊重するという建前は、基本的に言葉が通じない、価値観が
違うもの同士だからこそ、重要視するものであり、阿吽の呼吸や以心伝心などと言うのは、
あくまで非常に狭い個々のコミュニティの中だけのものである。
これらを前提にするならば、現在のマスコミのように過剰に韓国の文化を日本に持ち込んで
礼賛するような姿勢は眉をひそめたくもなるし、かと言って、韓国という言葉にこれまた
過剰反応してなんでもかんでも批判に持っていくのも、あまりにバランス感覚を失した
行動と言わざるを得ない。
要は、歴史あるはずの日本人が歴史に根ざした行動規範や感覚をないがしろにすることで、
無条件の称賛か批判しかないような両極端な態度を取ってしまっていることが、既に
嘆かわしいことだと感じるのだ。
オレは、日本は同じ極東アジアの国とは言え、経済規模も違えば、道徳規範も大きく違う
韓国とはどうしても相容れないと思っている。無理して仲良くせねばならぬものでもない。
と言うと、旧社会党系や共産党の人間が、ならば戦争をする気か!とこれまた極端で未熟な
論理を使ってバカな国民達を存在もしない恐怖に陥れようとするが、これも違う。
言わば、「地理上、隣にある歴史的に日本と深いつながりのあった国」
これだけで良いのだ。これ以上もこれ以下もない。友達ではない=敵じゃないのだから。
いい加減、テレビや新聞が利害関係を持って作りだす流行やデマゴーグに流されて、
フラフラするのは止めようじゃないかと強く思う。
年末年始はバタバタしていて忘れていたけど、
そう言えばはや新年でした。
喪中ということもあって、元気に新年の挨拶とは
いかないながらも、今年は周りの人が元気で
いてくれること以外に特に望むことはございません。
皆様、今年も何卒よろしくお願い致します。
昨年を思い返せば、これまで以上に
新たな出会いから、久しぶりの再会まで、
たくさんの人達との社交の中に身を置けたことで、
望外の実りある一年となりました。
筋トレも切れることなく続けられて良かった。
しかし、悲しいことに、オレの体重は年々
増加の一途をたどり、気がつけばこの3年で
約10キロ増!!!!
腹もポッコリです。会う人会う人に、
『顔からシャープさが消えた』
と言われ続けました(涙)
この辺は今年の課題です。
マヤ文明云々で騒がしかった年末も、
ノストラダムスの予言と、それに現実味を
与えるような終末感を持って臨んだ
2000年のあの虚脱感が今も若干のトラウマに
なっているオレにとっては屁でもないことで、
世界の慌てぶりを楽しく眺めておりました。
あとは、職場の友人と予想&購入しているtoto。
(totoとは自分で予想するサッカークジのことである)
昨年は2等を2回当てたにも関わらず、結果的には
1等1600万円で我々は8万円、
2回目は1等130万円で我々は1万2千円と
1つ外すだけで、敗北感を受ける形に。
今年こそは、1等を当てて、銀座のキャバクラを
ハシゴしたいものです。
というわけで、最後は一気に下世話な話になりましたが、
皆さんもお身体に気を付けて、より一層充実した
一年となりますよう、お祈り申し上げます。
そう言えばはや新年でした。
喪中ということもあって、元気に新年の挨拶とは
いかないながらも、今年は周りの人が元気で
いてくれること以外に特に望むことはございません。
皆様、今年も何卒よろしくお願い致します。
昨年を思い返せば、これまで以上に
新たな出会いから、久しぶりの再会まで、
たくさんの人達との社交の中に身を置けたことで、
望外の実りある一年となりました。
筋トレも切れることなく続けられて良かった。
しかし、悲しいことに、オレの体重は年々
増加の一途をたどり、気がつけばこの3年で
約10キロ増!!!!
腹もポッコリです。会う人会う人に、
『顔からシャープさが消えた』
と言われ続けました(涙)
この辺は今年の課題です。
マヤ文明云々で騒がしかった年末も、
ノストラダムスの予言と、それに現実味を
与えるような終末感を持って臨んだ
2000年のあの虚脱感が今も若干のトラウマに
なっているオレにとっては屁でもないことで、
世界の慌てぶりを楽しく眺めておりました。
あとは、職場の友人と予想&購入しているtoto。
(totoとは自分で予想するサッカークジのことである)
昨年は2等を2回当てたにも関わらず、結果的には
1等1600万円で我々は8万円、
2回目は1等130万円で我々は1万2千円と
1つ外すだけで、敗北感を受ける形に。
今年こそは、1等を当てて、銀座のキャバクラを
ハシゴしたいものです。
というわけで、最後は一気に下世話な話になりましたが、
皆さんもお身体に気を付けて、より一層充実した
一年となりますよう、お祈り申し上げます。
大阪市の市立高校の男子生徒が、バスケットボール部の顧問の教師から体罰を受け、
その翌日に自殺したという今回の事件。
オレ自身は、潔癖で頑固な性格だったゆえに、こういう体育会の陰湿な部分が
どうにも受け入れ難く、敬遠していた性質だった。
それでも、中には当然良いと思われる部分もあって、それについては、
少しばかり吸収したり、受け止めたりしながら、自分の中に培ってきたつもりではある。
この事件で、一番困ったなぁと思うのは、テレビに出てコメントをしておる連中だ。
基本的には、多少の体罰はあっても良いと断言するオレですら、この教師が日に
40発近く殴ったこともあったとか、周りの教師も見て見ぬふりをしていたとか、
そういう話を聞いて吐き気を感じるほどの怒りや、自殺した生徒への同情を感じる。
テレビで見聞きした情報から、人が「可哀そうに」とか「ひどい!」と思うのは
真っ当な感覚だとも思う。
しかしね、テレビに出て、物を言う仕事をしているのであれば、発言がその一般の
人と同じでは困るのだ。
今回の大阪の事件ではたまたま、こういう形で顕在化しただけであって、いくらでも
それに近い事例はあるだろう。
一方で、悪い事をした生徒に少しでも手を出そうものなら、すぐに社会問題になるような
調子づいた子供たちとやわな精神性を持ったその親に囲まれた教師一般にも多少の同情の
余地はあって、それがこういった極端な形で噴出していると考えれば、この事件にのみ
フォーカスするのではなく、日本の教育現場全体がバランス感覚を失っているのではないか
というところから考えていかねばならん。(教育現場というのは学校だけでなく家庭の
中の教育も含めて)
それが、この教師は許されない!死んだ生徒が不憫だ!では思考が止まってしまう。
この、当事者でもないのに、感情論のみで意見を丸めこんでしまうのは日本人の悪癖と
言っていい。
オレ個人の見解では、件の教師が罪を免れないのは当然として、しかし、自殺した
生徒が友達に相談して一緒にそれを他の教師に訴えたりできなかったのは、ある意味
弱さゆえの悲劇だったと思うし、(そもそもアンケートでは体罰の現場を見たという
生徒が30人近くいたらしいが、そいつらは一体何をやっていたのか。)
それほどの青あざをつけて帰ってきた子供を見て、それがなんらか異常であるとして
行動に移せなかった親は一生自分を恨むだろう。(それが全ての世界である子供と違って、
大人ならば学校を休ませるとか、辞めさせるとかも含めなにかしらできたはずだ。)
結局、そういう風に、一つの問題のみを捉えて、その場限りの感想を述べるだけで、
全体の問題と考える事ができない未熟な大人が増え、広い視点で子供たちを助けたり、
叱ったりできない幼稚な社会が、彼を殺したとも言えるのではないかとも思うのだ。
その翌日に自殺したという今回の事件。
オレ自身は、潔癖で頑固な性格だったゆえに、こういう体育会の陰湿な部分が
どうにも受け入れ難く、敬遠していた性質だった。
それでも、中には当然良いと思われる部分もあって、それについては、
少しばかり吸収したり、受け止めたりしながら、自分の中に培ってきたつもりではある。
この事件で、一番困ったなぁと思うのは、テレビに出てコメントをしておる連中だ。
基本的には、多少の体罰はあっても良いと断言するオレですら、この教師が日に
40発近く殴ったこともあったとか、周りの教師も見て見ぬふりをしていたとか、
そういう話を聞いて吐き気を感じるほどの怒りや、自殺した生徒への同情を感じる。
テレビで見聞きした情報から、人が「可哀そうに」とか「ひどい!」と思うのは
真っ当な感覚だとも思う。
しかしね、テレビに出て、物を言う仕事をしているのであれば、発言がその一般の
人と同じでは困るのだ。
今回の大阪の事件ではたまたま、こういう形で顕在化しただけであって、いくらでも
それに近い事例はあるだろう。
一方で、悪い事をした生徒に少しでも手を出そうものなら、すぐに社会問題になるような
調子づいた子供たちとやわな精神性を持ったその親に囲まれた教師一般にも多少の同情の
余地はあって、それがこういった極端な形で噴出していると考えれば、この事件にのみ
フォーカスするのではなく、日本の教育現場全体がバランス感覚を失っているのではないか
というところから考えていかねばならん。(教育現場というのは学校だけでなく家庭の
中の教育も含めて)
それが、この教師は許されない!死んだ生徒が不憫だ!では思考が止まってしまう。
この、当事者でもないのに、感情論のみで意見を丸めこんでしまうのは日本人の悪癖と
言っていい。
オレ個人の見解では、件の教師が罪を免れないのは当然として、しかし、自殺した
生徒が友達に相談して一緒にそれを他の教師に訴えたりできなかったのは、ある意味
弱さゆえの悲劇だったと思うし、(そもそもアンケートでは体罰の現場を見たという
生徒が30人近くいたらしいが、そいつらは一体何をやっていたのか。)
それほどの青あざをつけて帰ってきた子供を見て、それがなんらか異常であるとして
行動に移せなかった親は一生自分を恨むだろう。(それが全ての世界である子供と違って、
大人ならば学校を休ませるとか、辞めさせるとかも含めなにかしらできたはずだ。)
結局、そういう風に、一つの問題のみを捉えて、その場限りの感想を述べるだけで、
全体の問題と考える事ができない未熟な大人が増え、広い視点で子供たちを助けたり、
叱ったりできない幼稚な社会が、彼を殺したとも言えるのではないかとも思うのだ。
ひさしぶりーにここへログインしてみたら、レイアウトなんかが大きく変わっていて、
一体どこを押せばいいかもわからんようになっとった・・・(苦笑)
今までのシンプルな感じで良かったのに。
ブログをまともに書いていなかったこの1年ほどで、なるべくたくさんの
人と会って刺激を得るという目標をひとまず、一定の成果というか、手ごたえ、
充実感はあったものの、正直に言うと、ちょっと疲れてしまったというのも
本音としてはある。
改めて思ったのは、人と相対するという、ごくごく自然な活動の中には、
人間が少しずつ成長するために必要な要素(例えば、TPOをわきまえた振舞いや気の遣い方、
話す内容やその際の言葉の選び方、人との距離の取り方etc)がふんだんに組み込まれていて、
それを消化していくには、相応の気力が必要であるということ。
つまり、非常に面倒くさいといえば面倒くさいことで、それでも、そうやって
気力を使いながらも、一方で生の活力を得ることができるのが、人間同士の生身の
泥臭い交流の本質であるということ。
こういった中で、オレ個人としては、すごく懐かしくも物悲しい過去の思い出を
振り返らせられて郷愁の念を抱き、今自分が置かれた立場に不甲斐なさや多少の
後悔を持ってそれでも必死にもがいてみたり、そしてそのもがく理由となるような
自分を取り巻く人達との将来への希望を無理やりにでも思い描いたりと、
過去から現在、未来へとつなぐ一本の精神の平衡棒の上を慌ただしく行ったり来たり
していた(いる)わけです。
結果的には、現状、大きな閉塞感がオレを待っていて、それを打破するきっかけを
いつになるかは分からないけれども、奥に潜めた鋭い眼光でもって狙いすまして、
突破してみせんという気持ちを、切らさないように、もう少し粘ってみなけりゃ
いかんなぁというところで、私の近況報告でした。
かなり抽象的に書いてしまってなんの具体性もない話ですが、そのへんは
適当に推測して頂くとして・・・(笑)
ちょっと関係のない話。
mixiもやったことがなく(去年頃にちょっとやってみたけど意味分からんかった)、
アンチテクノロジーのオレが唯一コミュニケーションツールとして使っているのが
facebookとこのブログです。ただfacebookは主に海外に住む友達とのやり取りがメイン
で、いかんせん多くの知り合いの目に触れるモノで、しかも新しいモノに目がない
親父と叔母さんに嗅ぎつけられて、承認せざるをえなくなったものだから、
自分のプライベートに関する書き込みや投稿に変な制限がかかってしまって(笑)
すごく窮屈な思いをしています。
また、その広く浅くな方向性はオレの感性と合致するはずもなく、しかし、
最近はその気軽さに少し身を委ね過ぎていた気もするので、なんだかんだで
このブログで好き勝手書くことの方が、本来自分が志向する闊達な言葉の交流が
実現できると実感した次第です。
一体どこを押せばいいかもわからんようになっとった・・・(苦笑)
今までのシンプルな感じで良かったのに。
ブログをまともに書いていなかったこの1年ほどで、なるべくたくさんの
人と会って刺激を得るという目標をひとまず、一定の成果というか、手ごたえ、
充実感はあったものの、正直に言うと、ちょっと疲れてしまったというのも
本音としてはある。
改めて思ったのは、人と相対するという、ごくごく自然な活動の中には、
人間が少しずつ成長するために必要な要素(例えば、TPOをわきまえた振舞いや気の遣い方、
話す内容やその際の言葉の選び方、人との距離の取り方etc)がふんだんに組み込まれていて、
それを消化していくには、相応の気力が必要であるということ。
つまり、非常に面倒くさいといえば面倒くさいことで、それでも、そうやって
気力を使いながらも、一方で生の活力を得ることができるのが、人間同士の生身の
泥臭い交流の本質であるということ。
こういった中で、オレ個人としては、すごく懐かしくも物悲しい過去の思い出を
振り返らせられて郷愁の念を抱き、今自分が置かれた立場に不甲斐なさや多少の
後悔を持ってそれでも必死にもがいてみたり、そしてそのもがく理由となるような
自分を取り巻く人達との将来への希望を無理やりにでも思い描いたりと、
過去から現在、未来へとつなぐ一本の精神の平衡棒の上を慌ただしく行ったり来たり
していた(いる)わけです。
結果的には、現状、大きな閉塞感がオレを待っていて、それを打破するきっかけを
いつになるかは分からないけれども、奥に潜めた鋭い眼光でもって狙いすまして、
突破してみせんという気持ちを、切らさないように、もう少し粘ってみなけりゃ
いかんなぁというところで、私の近況報告でした。
かなり抽象的に書いてしまってなんの具体性もない話ですが、そのへんは
適当に推測して頂くとして・・・(笑)
ちょっと関係のない話。
mixiもやったことがなく(去年頃にちょっとやってみたけど意味分からんかった)、
アンチテクノロジーのオレが唯一コミュニケーションツールとして使っているのが
facebookとこのブログです。ただfacebookは主に海外に住む友達とのやり取りがメイン
で、いかんせん多くの知り合いの目に触れるモノで、しかも新しいモノに目がない
親父と叔母さんに嗅ぎつけられて、承認せざるをえなくなったものだから、
自分のプライベートに関する書き込みや投稿に変な制限がかかってしまって(笑)
すごく窮屈な思いをしています。
また、その広く浅くな方向性はオレの感性と合致するはずもなく、しかし、
最近はその気軽さに少し身を委ね過ぎていた気もするので、なんだかんだで
このブログで好き勝手書くことの方が、本来自分が志向する闊達な言葉の交流が
実現できると実感した次第です。
オレの親戚は、比較的国際色に富んでいて、母方の親戚でも家族みんながアメリカに
20年以上住んでたり、大学時代にイギリスに5年間行っていたり、父方の親戚も
兄弟の大半がアメリカ暮らしの方が長かったりと、家庭の事情もあるにせよ、
やたらと海外生活の長い人が多い。
オレが高校生で、神奈川県に引っ越してきた頃、その親戚のうちの一人でオレと同い年の
女の子がインターナショナルスクールに通っていたので、文化祭に一緒に行った事がある。
当時は学業としての英語なんてサラサラ興味なく、成績も非常に悪かったオレが、
最終的にはほぼ毎回学年のトップを取る程になったのは、そこでの英語文化に触れた
実体験がすごく大きかったと思う。
その子が昨年から日本に戻って仕事をしていて、しかも家が二駅隣だということが
わかったこともあり、たまたま連絡を取る機会ができたので、当時のお礼も兼ねて
一緒に飯でも行こうということになり、先月に12年ぶりの再会を果たした。
なかなかにファンキーな見た目に驚いたものの(笑)、それでも親族ならではの身内話など
多様な話ができ非常に有意義で楽しい時間を過ごせた。
面白かったのは、その会話の中で、彼女がどうにも日本語で表現できない言葉が
何度か出てくるので、その都度オレが英語で聞いて、それは日本語ではこう言うんだよ
と説明する場面があったことだった。
まるで、外人に日本語を教えるような気持ちだったが、それでも、伝えようという意思が
しっかりしているため、オレ自身も楽しみながら会話ができた。
一方で、最近は職場にもアルバイトの若い20そこそこの子たちが多くなってきて、
たまに話すことがあるのだが、とにかく言葉を知らない。
3センテンスに一回くらいは、「え、それどういう意味ですか?」と聞かれるのだ。
そのたびに、そのさほど難しくもないありふれた単語の意味を、かいつまんでなるだけ
分かり易い言葉で説明するのだが、もはや会話以前の問題。
この対比がなんとも可笑しく、それでいて、おいおい大丈夫かよ・・・との思いに
駆られた。同じ「言葉を知らない」でも徒労感が違うのだ。
若者よ、もっと勉強しなさい!!
「おいしい」も「楽しい」も「悲しい」も「辛い」も全部「ヤバい!!」で表現
できると思うなよ!!!
数年前からのIT業界の急成長により、パソコンの普及は一気に進み、人間にとって
すごく便利な世の中になったと言われている。
この前、PCなどに詳しい会社の先輩とその話をしていて、意外にも同意してくれた
意見がある。オレの主張はこうだ。
我々が学生の頃は、知らない事は本で調べたり、人から聞くことで覚えていき、
知識を深めていった。しかし、それでも、情報が不十分であるがゆえに、
自分で考えることで(自身の意見を入れて)その穴を埋めてきたのだ。
今は、確かにパソコンを使うことで誰でもすぐに、知らない事や知りたいことを
手軽に素早く入手することが出来るようになった。
オレは、そこで疑問が起こる。
なんでもすぐに知る事ができるが、君たちは、俺たちは、その知りたい事を
どれだけ多く持っているのか?
ピンポイントで情報を得られるがゆえに、知識や興味の幅が異常に狭く、小さい
範囲の中で収束してはいないか?
人は足りないからこそ、自分で補ったり、頭を使うのであって、十分足りていると、
そういった欲求は失われがちになる。
そういった意味で、ITの充実は今の日本社会の大きな損害になっているのではないか。
コンピューターとは、本来人間の時間を節約するために発明され、それにより余った
時間を生身の人間との社交に充てられるべきであるのに、今やそのコンピューター
自体が人間が時間を浪費するための道具に成り下がってしまったように思う。
そうしてしまったのは、我々自身であるという自覚を持ちつつ、そしてオレ自身も
その距離感が掴みにくくなっているという反省も踏まえて、今後も人との意義ある
会話を楽しみたいと思っている。
20年以上住んでたり、大学時代にイギリスに5年間行っていたり、父方の親戚も
兄弟の大半がアメリカ暮らしの方が長かったりと、家庭の事情もあるにせよ、
やたらと海外生活の長い人が多い。
オレが高校生で、神奈川県に引っ越してきた頃、その親戚のうちの一人でオレと同い年の
女の子がインターナショナルスクールに通っていたので、文化祭に一緒に行った事がある。
当時は学業としての英語なんてサラサラ興味なく、成績も非常に悪かったオレが、
最終的にはほぼ毎回学年のトップを取る程になったのは、そこでの英語文化に触れた
実体験がすごく大きかったと思う。
その子が昨年から日本に戻って仕事をしていて、しかも家が二駅隣だということが
わかったこともあり、たまたま連絡を取る機会ができたので、当時のお礼も兼ねて
一緒に飯でも行こうということになり、先月に12年ぶりの再会を果たした。
なかなかにファンキーな見た目に驚いたものの(笑)、それでも親族ならではの身内話など
多様な話ができ非常に有意義で楽しい時間を過ごせた。
面白かったのは、その会話の中で、彼女がどうにも日本語で表現できない言葉が
何度か出てくるので、その都度オレが英語で聞いて、それは日本語ではこう言うんだよ
と説明する場面があったことだった。
まるで、外人に日本語を教えるような気持ちだったが、それでも、伝えようという意思が
しっかりしているため、オレ自身も楽しみながら会話ができた。
一方で、最近は職場にもアルバイトの若い20そこそこの子たちが多くなってきて、
たまに話すことがあるのだが、とにかく言葉を知らない。
3センテンスに一回くらいは、「え、それどういう意味ですか?」と聞かれるのだ。
そのたびに、そのさほど難しくもないありふれた単語の意味を、かいつまんでなるだけ
分かり易い言葉で説明するのだが、もはや会話以前の問題。
この対比がなんとも可笑しく、それでいて、おいおい大丈夫かよ・・・との思いに
駆られた。同じ「言葉を知らない」でも徒労感が違うのだ。
若者よ、もっと勉強しなさい!!
「おいしい」も「楽しい」も「悲しい」も「辛い」も全部「ヤバい!!」で表現
できると思うなよ!!!
数年前からのIT業界の急成長により、パソコンの普及は一気に進み、人間にとって
すごく便利な世の中になったと言われている。
この前、PCなどに詳しい会社の先輩とその話をしていて、意外にも同意してくれた
意見がある。オレの主張はこうだ。
我々が学生の頃は、知らない事は本で調べたり、人から聞くことで覚えていき、
知識を深めていった。しかし、それでも、情報が不十分であるがゆえに、
自分で考えることで(自身の意見を入れて)その穴を埋めてきたのだ。
今は、確かにパソコンを使うことで誰でもすぐに、知らない事や知りたいことを
手軽に素早く入手することが出来るようになった。
オレは、そこで疑問が起こる。
なんでもすぐに知る事ができるが、君たちは、俺たちは、その知りたい事を
どれだけ多く持っているのか?
ピンポイントで情報を得られるがゆえに、知識や興味の幅が異常に狭く、小さい
範囲の中で収束してはいないか?
人は足りないからこそ、自分で補ったり、頭を使うのであって、十分足りていると、
そういった欲求は失われがちになる。
そういった意味で、ITの充実は今の日本社会の大きな損害になっているのではないか。
コンピューターとは、本来人間の時間を節約するために発明され、それにより余った
時間を生身の人間との社交に充てられるべきであるのに、今やそのコンピューター
自体が人間が時間を浪費するための道具に成り下がってしまったように思う。
そうしてしまったのは、我々自身であるという自覚を持ちつつ、そしてオレ自身も
その距離感が掴みにくくなっているという反省も踏まえて、今後も人との意義ある
会話を楽しみたいと思っている。