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~ビールを片手に~

人生についてちょっと真面目に考えたい人のブログ

ここでブログを始めて、1年半くらい経った。

それこそ、超の付くアナログ人間であるオレがパソコンに慣れる意味合いもありながら(笑)

学生時代の楽しかった考えをぶつけ合う習慣を懐かしみ、今一度、考えを広げたり、狭めたり、

固めたり、逆に変質させながら、当時の刺激に溢れた自由闊達な【会話】の延長を

やってみたくてここまで、なるべく分かり易いように書いてみたつもりです。

ただ、やはりというか、自分の文章能力の限界もあって、うまく本意を伝えられない

ように感じることが多く、特に面白さという意味では対面しての会話には遠く及ばない。

文章で説明するというのは、一定の論理の整合性とかある種のつじつま合わせが必要であって、

そうすると、以前にこのブログでも書いたように、「会話にありがちな無駄」を排除せざるを

得なくなるということがある。それがどうにも退屈に思えてきてしまったのです。


数ヶ月前に、大学時代にゼミでお世話になった先生と二人で飲みに行かせてもらう機会が

あったのですが、その時にも特段難しい話をした訳でも長い話をしたわけでもなかったのだけれど、

何とも言われぬ充実感がありました。それはおそらく互いの意見が違っても、根底にある感情や意識、

常識といったものが通じているからこその、心地良いコミュニケーションがあったからで、

だからこそ、どれほど話が抽象的になっても、どんな話題でも楽しい会話になる、

目の前にいるからこそ理解し合える要素もあったのだと、先生の意向は存じぬけれども

勝手にそう感じさせてもらいました。


そういう感情があった上に、文章ではどうしても一方通行になってしまいがちである部分について、

やや物足りなさを感じることが多かったのと、仕事もなかなかに忙しくなっていることもあり、

これを機に一度、ブログを書くことを中断し、自分の日常の中にある生身の【社交】に重点を

置きたいと考えた次第です。

要はアウトプットだけでは疲れるので、インプットに力点を、ということです。

もしかすると、黙ってはおれず、突発的に書くことはあるかもしれないけれども、ひとまず休憩。

時間の許す範囲内で、皆さんのブログチェックは継続させてもらいまーす。


梅雨のじめじめや、夏の暑さにばてないように、お気を付けてー。
このブログでも、再三お伝えしてきましたが、オレはとにかく知らぬ人に

いきなり話しかけれることが、ほんーーーとうに多い。

じゃあ、すごくフレンドリーな雰囲気を醸し出してるのかと言えば、

普段は結構ムスッとしていることが多い上に、道を聞かれたりとか

そういうことはほとんどないので、そうでもないんだろうと思う。

余談だし、別にここで無駄にいい人アピールをするつもりも毛頭ないけれど、

どちらかと言えば、明らかに困っている人には、こちらから寄っていくことにしている。

理由は簡単で、そういうのが面倒と思わない性質だから。

それに、オレの友達には、意外とそういうことをなんとなしにさらりとやれる人が多いので、

その影響もあるかもしれない。


話を戻すと、先週、土曜日の早朝に出勤のために空いた電車の座席に座っていると、

途中の駅で、いかにも身なりの汚い、おそらく60近いだろうおじさんが乗ってきた。

そのおじさんは、明らかにほろ酔いで、しかも片手にはチューハイの缶を持っていた。

そして、おもむろにオレの隣に座ると、話しかけてきた。

おじさん「兄ちゃん、スポーツやってんの?」

オレ「えっ?まぁ一応サッカーやってましたけどね。」

おじさん「今から行くのかい?」

オレ「いや、今から仕事です。」

おじさん「歳いくつ?」

オレ「2●歳です。」

おじさん「あぁ、まだそんな若いのぉ。」

とまぁ、こんな感じで他愛のない会話が続き、

その後、おじさんは目黒によく飲みに行くが、どこどこでだれそれを見たとか、

芸能ネタをたくさん提供してくれたので、苦笑いしながら聞いていた。

すると、話の中に出てきたバーが、たまたまオレがよく行っていたところだったので、

そう言うと、嬉しそうに、

「そうかぁ、そうだよねぇ。若い子はやっぱり飲みに行くよね、そうだよねぇ、うんうん。」

とかなんとか訳のわからない納得をし、そして、千鳥足で六本木駅へ降り立っていった。

正直に言う。オレは眠たかったから少しばかり寝たかったし、おじさん、口が臭すぎたし、

しかも必死に話しているせいで、オレの腕にツバ飛びまくりだったのは、不快だったよ・・・・・


前の韓国人のおばさんと言い、どうにも、こういう不思議な人に好かれる性分らしい。

いつか、田中麗奈と長谷川京子と沢尻エリカを足して足しっぱなしのすっごいめんこいおなごから、

「いつも影ながら見てました。お友達になりませんか?」

とか話しかけてもらえんもんかなぁ・・・・・。ええ、絶対に言ってもらえません。


そういえば、最近、会社の健康診断がありまして、身長が前より0.2センチアップし、

178.8センチになりました。

中学校時代は漫画の影響で、自分が197センチになると信じてやまなかったオレには

不本意な数字ではあるものの、現実的には180あれば嬉しいところなので、これからどんどん

牛乳を飲んで、必死に成長しようと思います。ちなみに、体重も3キロ増でしたが、それでも

世の女性陣からは反発を買いそうなので、数字は言わない方が良さそうです。


以上、話せる範囲の最近の出来事でした(笑)









前回、政治家と言葉の関係について書いた。

が、やや書き忘れたことがあったので、少し言い足しておきたい。

もちろん、再三指摘しているように、民主党のかつての左翼の内ゲバさながらの幼稚な行動には

失笑しか出てこないし、過去の自民党政権と比べても、菅総理の理念とそれを語る言葉を欠いた言動は

全く論ずるに値しないが、それでも決して今の自民党が素晴らしいとも思わない。

それは当然言葉にも表れていて、内閣不信任決議における石原伸晃幹事長の演説は

呆れながら聞かせてもらった。

というのも、浜岡原発停止に関して

『それならば、代替エネルギーを何に求めるのかという検討が必要だ』

という趣旨の事を述べていたが、その原発は安全だと言い、その代替エネルギーへの

関心や推進を止めてきたのも、また自分達である。これは言葉の矛盾という以前に、

この言葉を発することが恥ずかしいと思わなければ嘘である。

言葉の矛盾という意味では、国民とて同じである。

マスコミの流すエコという言葉の心地よさにすぐさま飛びついたあげく、

【無添加石鹸を買うために、燃費の悪い大型車で出かける】という矛盾には目もくれず、

今度は原発は危険だから火力発電に!とその環境に与える影響を無視し始めても平気な顔を

しているというのが、大方の日本人の姿なのだから。


オレがことさらに言葉が大事だというのは、言葉というものが、ただ単にその物を認識させる

だけの記号ではないからだ。

例えば、近所に小さい時から通っていた××商店という駄菓子屋さんがあったとする。

おそらくそこにはたくさんの友達との思い出や店番をするあばあちゃんとの会話もあったかもしれない。

しかし、そのおばあちゃんが亡くなり、店が閉まってしまうと、××商店自体は存在しなくなり、

自分が成長するにつれ、すっかり忘れていってしまう。

ところが、大人になって、××商店の話が出ると、途端に話に花が咲く。思い出話が広がっていく。

それは、たとえ存在自体が目の前になかったり変化しても、その言葉のイメージや意味は、

そこに関わった人々の中で共有され、歴史として蓄積されていくからだ。

考えてみれば、それこそ日本でも世界でもそういった伝聞が歴史の始まりだったはずなのだ。

しかし、今、それを受け継いだ現代人が、その言葉をいい加減に扱ったり、忘れていく事で、

それらの言葉に含まれた過去から受け取った歴史の知恵を自ら放棄することになる。

今を生きているということだけで、それが全てであるというような錯覚や認識は

大いなる誤りをもたらすということを自覚しているかどうかは、その国の文化的水準を

知るのに十分な指標となるのだ。

関東も例年よりもかなり早い梅雨入りをし、やや陰鬱とした気配でおられる方も多いと思うので、


あえてこの時期にこんな話かと思われるかもしれない(苦笑)


自分としても、こういう時はもう少し気楽に楽しく、例えばAKBの話でもできれば


いいのかもしれないけれども、しかし、ここは己の性格的な陰鬱さを呪いながらも、


こんな時期だからこそ、こういうことを考えてみるのも一興と信じこむことにする。



タレントの上原美優さんが自殺した翌日に、人と話をしていて、興味深かった意見が


あったので、覚えている範囲でその論旨を書いてみたい。


「彼女が死んだあと、テレビで交流のあったタレントさん達が、『もし、あの時私が~していたら』とか


『なぜ助けてあげられなかったのか』と言っているのを聞いて、それは変だと思った。


人一人ですら、それを助ける、救うというのは、そんな簡単なことではないはずで、


人間として非常に傲慢な言い方ではないか。」


これに対しては、オレ自身もほとんど同意見で、身内や肉親ですらどうしようもなかった


ことを、他人がどうこうできる余地など果たしてあったのかと。


もうかれこれ長い間、日本では年間で3万人が自殺をしているという。(これはあくまで自殺と


認定された人だけなので、実際はもっと多いかもしれない)


世の中には、『生きることは尊い』、『命は大切』というフレーズが、これだけ溢れているというのに。


いや、確かにそれはごもっとも。でも、これは小学生くらいならおおよそ見当がついているだろうし、


少しばかり繊細さを持ち合わせている子供なら誰でも一度は考えることじゃないか。


そんな誰もが分かり切ったことを、大人が子供と同じような思考回路や物言いで話すことに


恥ずかしさを覚えるのは、少なくともオレの中での真っ当な感覚である。


それでは、まともな大人が考えるべきことは何か?それは【自死】についてではないか。


では、【自死】と【自殺】の大きな違いは何だろう。


自殺に対する、自分なりの解釈を少し平易に言わせてもらえば、それは【自分】を【殺す】行為ではなく、


【自分】に【殺される】ことなのだということ。


つまりは、そこに本人の意思が介在しているようで、実はそんなものは露ほどにしかなく、


現実には、意思とは違う行動の結果が死である場合がほとんどなのではないかということ。


もう少し詳しく説明すると、


【自殺】が現在の自分の置かれた状況から逃れることを<目的化し>また、それを<選択させられている>


のに対し、


【自死】は死に場所や死ぬ理由を<自ら冷静に受け入れ>、その結果として<死を選び取っている>


面で大きな違いがあるのである。


三島由紀夫の割腹自殺などはまさに、自死の精神として語られるべきものであると思っている。


今の時代は、あっさり言えば、生命至上主義が跋扈する時代であり、何よりもまず


自分の命を尊ぶ。ただ、一方で命が大事であるがゆえに、それを自ら諦めることも、


また非常に勇気のある行動とも言える。


生命至上主義の怖いところは、時に人間の倫理観を破壊してしまうこと。


自分の生命を守るためなら、他者にはどんな行為をしても許されるというような、人間の品性に


悪影響を及ぼす場合である。


こういった自死の精神は、日本人に特有な思想であり、それゆえ、モーリス・パンゲなどは


その精神性に対し著書の中で称賛しているが、逆に当事者である日本人はというと、


もはやそこから逆行していくことを選び、それに対する羞恥もないのが現状なのだから恥ずかしい。


単なる自殺と違い、自死において重要なことは、自らが最も大切だと感じる価値観であり、


それが失われたり、守れないと感じる時に選びとられる。


今のような、戦後の多様な価値観の許容(価値の相対化)の中において、我々はそれでもなお


自分の譲れない一線について真剣に自身に問う必要があるのではないか。


現代人の置かれている精神の仮死状態のような中で、それでも生き永らえることが


どれほど重要なことなのか。


それでは、その仮死状態から復活するためには、どういった心の有り様が大事なのか。


時にゆっくりと時間をかけて考え、それを曲がりなりにも後の世代に受け渡す行為こそ、


大人の義務とでも言っていいはずである。


ただただ、命が大事と叫ぶだけでは、根本的な問題の一片の解決策にもならない。





いつの間にか、AKB48が国民的アイドルということが既成事実化されていて、


この前渋谷を歩いていたら、もう街中、流れる音楽、目に入る看板、CDショップの前、


ぜーーーんぶAKB。


総選挙だかがそろそろあるらしく、その投票権入りのCDを買うために、中には一人で何千枚も


買うアホもいるらしい。


それでMr.childrenのオリコンの記録を抜いたとかなんとかやっているが、


もうこういう売り方(CDに入った「音楽」自体には価値がほぼない)を世間が受け入れた段階で、


オリコンのランキングなんてなんの意味がない。(オリコン世代としては寂しいことだが)



その、何千枚も同じCD買う奴も、秋元康もそうだけど、金があるところにはある。


だけどね、どいつもこいつも品がないというか、粋な感じがしないよね。


金の使い方も、儲け方もいじ汚さだけが残る。


確かに、秋元にしても、その目の付けどころはスゴイとは思う。


でも、今のAKBはもう完全に集金システムの一部でしょ、あれは(笑)


去年、モバゲーに公正取引委員会の立ち入り検査が入ったように、グリーとかこういう


ソーシャルゲーム業界も、金は稼ぐが、その稼ぎ方はもうあこぎ。


要は、詳しい情報には疎いが、新しい物に飛びつくのが好きな日本人、若者の習性を


うまーく利用しているわけです。(これに関しては、もう自業自得と言っていいと思う)



先月だったか、ある某ネットワークビジネスに参加している知り合いに誘われた関係で、


仕方なく偵察も兼ねて食事会に参加してきたのだけど、もうそこは、吐き気がするような


拝金主義者とそれに憧れ盲信する若者(と言ってもオレと同世代くらい)の集まりだったので、


興味もなかったオレは、その様子を端っこで眺めさせてもらった。


それを見ていて改めて、


「あぁ、お金はやっぱり使い方を知っている人間の元に集まるべきなんだな」


と実感した。


世の中には、絶対に身の丈に合わない大金を持ってはいけないタイプの人間というのが


少なくない数いて、ところが、今の経済の仕組みでは、そういう人間にも大金を稼ぐ


チャンスが多々ある。


これは、決して望ましいことではないが、そうなってしまったのだから仕方がない。


そもそも、特にノーブレス・オブリージュの意識が低い日本人が、資本自由主義という


概念だけを進んで取り入れた時点で、もうこうなることは予測のできたことだったはず。


よって、悲しくもオレのような貧乏人が辛うじて出来る事は、


【金を稼ぐことがうまい人間が、必ずしも賢く金を使えるわけではない】


という至極真っ当な事実を意識しておき、そういったものと適切な距離感を保つことなんだろうと思っている。



ちなみに、にわかの僕の推しメンは篠田さんです(笑)