東山道の駅路を探索中です。

東山道は京を出て、近江、美濃、信濃、上野、下野、陸奥国多賀城へと続いていきました。

松本で発掘をしていたときの友達が今は中津川に住んでいるので、4月に遊びにいき、周辺を案内してもらいました。(このときは岩村城、正家廃寺跡など)
中津川市は古代は東山道が通り、中世には苗木城や岩村城などの堅固な城が築かれました。近世には中仙道が通るなど、賑やかな反面、動乱に巻き込まれてきた歴史の色濃い地域です。そしてこの先、リニア中津川駅ができます。
久しぶりにあった彼女とお喋りが止まりませんでした。ひとしきり東山道の話をした後で、ANAHORIは
「あなたに東山道中津川支部をおまかせしたい」と勝手な事を言って帰ってきました。

岐阜県の東山道駅路
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するとまじめで行動力抜群の彼女走る人は、早速スマホで中津川支部活動報告を送ってきてくれたのであります!!
いつもなら車で行くホームセンターまで歩いていき、あたりの写真カメラを撮ってきてくれました。
私のテーマ、美濃、恵那、伊那の東山道は、恵那山を目標に作られたのではないか、をちゃんと踏まえてきてくれたのです。涙です。えーん爆  笑

古代官道は直線を志向しています。それは現在地から目標に向けて棒を立てていく、と言うごく簡単な方法でできるそうです。
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これは浅間山を目標に作られた上毛国の駅路

http://yahoo.jp/ub3UNd ←中津川の地図

今回中津川の友達が歩いてくれた道
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神坂峠を挟んで、坂本駅(中津川市)と阿智駅(下伊那郡阿智村)は、峠を越すために馬が30匹も用意されていました。これは他の駅に比べて大変多い数です。普通は10匹。少ないと5匹です。そして比定置はともに駒場と言う地名です。
駅の運営は地元の郡が担っていました。
恵那に関しては文献が残っていて、駅の経営が苦しく駅の役人たちが逃げてしまって、なんとかしようと言う政府の策がたてられています。
馬に対する駅子の数を計算したものがあり、恵那郡は伝馬をプラス10匹飼うことになっているので合計40匹いました。40匹×6人という数になるそうで、240人(2駅とも機能していれば300人)については、駅の経営に携わるので、調庸を免除されています。当時恵那は6郷あり、900人から1200人の課丁数だったそうです。なので、駅にかかわって免除になる人が4分の1ほどいたことになり、恵那郡の4分の1は駅を切り盛りするのに必死だったと思っていいのでは?これは税金の計算なので、実際の仕事量が4分の1とはならないかもしれませんが。それでも大井も坂本の駅もみんな逃げてしまい。廃絶されます。しかたなく土岐の駅が応援したり、西美濃の席田郡の真祖父という人が立て直しに来たりしています。(「9世紀山麓駅家の経営」 永田英明)
恵那よりももっと山間地の伊那はどうだったのでしょうか。恵那でさえふたつの駅を支えられなかったのです。伊那は4駅を受け持っていました。この時点ですでに破綻していますね~。

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駒場を過ぎて、三菱工場横を通る。もうじき中津川に差し掛かる。

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中津川を渡ります。恵那山が見え、左の鞍部が神坂峠、だと思います。


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犬 の看板の上に恵那山と、その横の鞍部が見えます。
恵那山は2191mなので、岐阜県ではなじみの山。深田久弥が[美濃の人たちはいやというほど恵那山を見ている]、と書いてありました。

最近BSフジで、ローマ街道物語といいうのをやっています。
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先日第5話がありました。
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ローマ街道の全長は地球三周と4分の3になるそうです。ローマ人は道の効力を良く知っていたようです。

ローマの街道も、やはり直進が基本。軍隊がすぐに目的地につけるよう作られました。日本にもこういう道路の理念が伝わっていたんじゃないでしょうか。ローマ街道と日本の違いは、庶民に解放されなかったと言う点。ローマ人は街道を使って、旅を楽しみました。一マイルごとにおかれたマイルストーンというのがあり、それをかたどったカップを持ち歩いていたそうです。カップにはマイルストーンの立っている町が書いてあって、携帯カップ兼地図。日本に立石という地名が残っていますが、これは古代に道標を立てた名残だと言うことです。これ、マイルストーンをまねして建てたんじゃないでしょうか。
ローマ街道は庶民が使ったから、今でもよく残っています。日本では庶民の通行は許されませんでした。なので早く廃れてしまったのだと思います。

中津川支部の報告は次回に続きます。