震災から半年が経ちました。 | マルシェ*エトセトラ

マルシェ*エトセトラ

花が好き,カントリー雑貨が好き,ラガディーが好き,ハンドメイドが好き・・・
好きなことをたくさん詰め込んで日々の出来事を綴りたいと思います。


マルシェ*エトセトラ  こんにちは(^-^)/


昨日は、震災から半年・・・日曜日だからでしょうか、特別番組がたくさんありましたね。

私も、地元のことが報道される番組を大分見ました。


私はあの日、高台にある施設にいて、地震後はすぐに避難してくる人たちの対応に当たっていたことと、私のいた場所は周りがぐるっと杉で囲まれていたので、津波を見ることが出来なかったのです。


何か目の前の風景がフワ~と黄色みがかってきて、わずかに地響きのような音が聞こえたような気もするのですが、まさか何もかも飲み込んで仕舞う津波が、すぐ下の方で悲惨な状況を作っているとは想像できませんでした。


ただ、目の前の地面が裂け、隆起したりする光景が、恐ろしかっただけでした。


そして、「今晩は無理かもしれないけど、明日の朝になれば家に帰れるだろう・・・」と漠然と思っていました。

まさか、帰る道が無くなっていることなど想像もしませんでしたから。


しかし、だんだん外が暗くなると反対に空がオレンジ色になり始めました。

見えないその場所が次々と燃え始めているということでした。

次々避難してくる人たちからの情報で、町の様子が伝えられるのですが、津波を見ていない私にはなかなか理解できず、想像が出来ない状況でした。


その夜は、電気がなくても不自由しないほどの明るさでした。


翌朝、建物の屋上に上って初めて町を見ました。

理解できないけど、大変なことがおこってしまったのだと思いました。


子供たちとは、電波が途絶える直前までに津波には巻き込まれていないことは確認していましたが、旦那様は音信不通でした。でも、職場は高台にあるから大丈夫だろうと安心していました。

(でも、後から聞いたらそこでも危険で、さらに山に登ったとのことでした。)


テレビは見られませんでしたから、ずっとラジオが流れるのを聞いていました。

ラジオで「仙台の荒浜地区の道路に遺体が200~300ある」と言うのを聞いて、同僚と「どうしてそんなことがあるの?1度にそんなに人が死ぬなんてありえないよね。何かの間違いだよね。」と話していました。

大津波が迫り来る様子、何もかも飲み込んでいく様子を見ていない私たちは、仙台の方まで同じような光景になっているとは、思いもしなかったのです。

津波は、海の町である気仙沼だからこそと思っていたから・・・。


結局、家に帰れたのは4日後・・・でも、着替えて防寒の備えを持ってすぐまた避難所になっている職場へと戻りました。


ホントあのときは寒かった。何枚重ねて着ても、朝方になると震えが来ました。


それからは、ずっと職場に泊まり込んで支援活動をしていました。


幸い、息子2人は無事に家に帰り着き、職場へもまだ行ける状態ではなかったので、家のことはすっかり任せました。3日かかって、やっと住めるように片付けたとのことでした。


携帯どころか固定電話も使えず、私の親兄弟は仙台にいて報道を聞いているのみでしたから、私たちは死んだものと思っていたようです。

父母は、私たち夫婦が子供4人残して死んでしまったと思って、孫のことを不憫に思っていたようです。


それでも、弟は、インターネットで情報を一生懸命探してくれていたそうです。

父は、毎日放送局に電話して尋ね人として情報提供を呼びかけていたそうです。


携帯電話が繋がったのはいつのことでしょうか・・・あのころは、ことの重大さが飲み込め、夢中になって朝から晩まで動いていたから、記憶が定かではありません。

2週間くらいかな?10日かな?

わずかながら携帯の電波が拾えるところがあって、何度も何度も母に電話をしたらやっと繋がりました。母は、「あ~よかった~。」と言って泣き崩れました。

私も、電話を切った後いつまでも涙が出て止まらず、しばらくは泣いていました。


それから間もなくして、しっかり電波が入るようになると一斉に履歴がどっと入ってきたので、みんなに返事をしました。私からの連絡がないので、死んでしまったと思った友人も多かったようです。


あれから半年。

被災したところに行ってその惨状を見るのですが、津波に襲われた瞬間のことは想像がつきません。

でも、インターネットの動画や特集番組で私の慣れ親しんだ場所、よく見ていた風景が、津波にのみこまれる映像を見ることで、やっと津波が実感として分かるようになってきました。


幸いにして、私は大丈夫だった。家族も助かった。家も失わずにすんだ。

幸せなことだと思います。


昨日は、通勤途中にあったパーマ屋さん一家の話題が番組に取り上げられていました。

その家のおじいさんが孫と一緒にお店の前にいて遊んでいる光景をたびたび見ていました。

番組では、そのおじいさんが家族の遺体をやっと発見してもらえたというところから始まっていました。

家族5人、車で避難する途中で津波にのみこまれ、行方不明になったそうです。おじいさんは、車に乗れないからと一人バイクで逃げて助かったとのことでした。

お話しもしたことがないご家族ですが、見たことのあるお顔が写真に写っていて、悲しくなりました。

そして、あの日私の見慣れた風景が、ひどいがれきの山、惨状だったことが分かりました。



今日は、とりとめもなく書いてしまいました。

読んでくださった皆さんありがとうございました。