ベートーヴェン運命交響曲
あまりに有名過ぎて、このタイトルで書くのは、ものすごく勇気いるんですよね
歴史上、いろんな指揮者、オーケストラが演奏してきている。
わたしは小学生の頃から聞いていたが、
家にあったのがトスカニーニ、NBC交響楽団のレコードだったので、
小学校3年生の頃から聞いていたと思うので、
恐らくこのレコードだけでも300回くらい聞いたと思う。
毎日、聞いていたと言っても過言ではなく、
全楽章で約30分なのだが、30分くらい隙間時間で聞いていた。
1年間で100回でも3年間で300回になる。
そういう単純計算をしているだけのことですが。
中学になると、カラヤン指揮、ベルリン・フィルにはまった。
高校になると、ジョージ・セルの指揮、クリーブランド管弦楽団を聞いていた。
聞く指揮者は変わっていったが、聞いた回数は合わせると500回どころではないと思う。もっとも、年齢が上がると他の曲も聞くようになるので段々、回数は減っていると思う。
フルトヴェングラー指揮の演奏はもっと後に出会う。
今は、フルトヴェングラーとジョージ・セルが
正反対の演奏として、どちらも捨てがたい。
フルトヴェングラーというのは、
(あくまでわたくしの考えということにして頂くとして、)
激情型、興奮型、楽譜から読み取れるものを極端に誇張して表現していくタイプで、音楽の性質に伴いテンポも変わる。
比較的、演奏時間は長めになります(長く聞こえるというか)。
ジョージ・セルはその正反対で、いわゆるザハリッヒな指揮者である。
ザハリッヒとは、主観を交えずにあくまで楽譜上のみ、という意味で使われる言葉で、わたしは音楽評論家吉田秀和さんの解説で初めて知った言葉である。どちらかというと演奏時間は短めになります(短めに聞こえるというか)。
トスカニーニも、典型的なザハリッヒな指揮者の部類でしょう。
(あんまり、こういう分類づけは好きではないが)
運命交響曲で最も極端に現れるのが3楽章から4楽章。
フルトヴェングラーの演奏というのは、
3楽章で、大雨、嵐、海は大荒れで日本沈没ならぬ世界沈没、
というようなものすごいスケールの演奏で、
西洋人からすると、こういのがアルマゲドンというのだろうか。
そこから、徐々に徐々に(ティンパニーがドの音を静かに叩きつづけ)、
光が見えてきて、一気に牧歌的というような救いの4楽章に入っていく。
これに対し、ジョージ・セルは、
3楽章は、冷たい氷の世界。わたしはいつも、原始地球と言っている。
まだ太陽の光も届いていない暗黒の世界。
全体にビブラートが一切かかってないかのような演奏であって、まるで能面。心底、冷え切る。
そこから、徐々に徐々に、光が差してきて、地球に命が宿る4楽章。
というような両極端の演奏だと感じている。
今もって、両方、捨てがたいのです。
聞くときは、今日はどっちの気分?みたいな感じで選びますね。
カラヤンもザハリッヒな指揮者の方に入る(と吉田秀和さんが言っておられた。わたしもそう思う。)
もっとも、カラヤンは、冷たい演奏はしないけれど。
フルトヴェングラーとジョージ・セルを挙げましたが、
運命交響曲は、まだまだ素晴らしい演奏はたくさんあると思います。何年版かによっても違うし、フルトヴェングラーは
いろんなオーケストラと協演していますし。
聞く方によっても受け止め方は違います。
それぞれの運命交響曲をお楽しみ頂ければと思っております。