merlinus-stonehengeのブログ

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光があれば影があり、昼があれば夜がある。

 

お疲れ様です。

 

この季節は気温の変化によって、体調を崩しやすいのが良くないですね。

しかし四季の移ろいも生きる為にすることは変わらず、日々を生きています。

 

さて、テーマとしては表題の通りですが…

英才教育における言語統一という物からテーマを読み解いてみましょう。

 

言語において英語が世界共通語に設定されたのは、教育において必要な基盤が整っているからです。

言語に対して研究され、知識を深め、経験を反映している。

国の繁栄と言語の完成度はこの国際社会において比例するといっても、過言ではありません。

 

日本は、英語の普及率が私を含め殆どありません。

日本語に関して英語に匹敵するほどの言語の完成度がある為、代用する必要がないのです。

仮にそれがないのであれば、語訳して出版する必要性などないのです。

 

しかし日本語というのは古めかしく、世界のスタンダードではないと思う人々もいます。

思うのは価値です、自由にすることは個人の尊厳でしょう。

しかし存在していることは貴重性であり、壊されず大切に扱われた証明なのです。

 

存在という物に目を向けて、自らを律する必要があるでしょう。

価値に踊らされることそれほど滑稽で、人から嘲笑されることはありません。

私たちが何を紡いで生きてきた民族なのか、それを価値がないからと否定するのか。

 

人には限界があります。故に民族であり、国であり、集団なのです。

言葉は個人では必要ない。言葉が成り立つということは、集団で生きる為の先人が流した血の結晶でしょう。

そうして存在した私たちは、壊されずに大切に扱われたはずです。

 

それは近しい人によってではない、名もない誰かの知恵によって選択肢を与えられている。

そうしてその知恵が不要となった時、文字によって作られた文明は崩壊するのでしょう。

 

お疲れ様です。

 

箸休め的な意味も含めて、軽い内容の話を書きます。

昨今の【当たり前】を真に受けた人が、結果どうなっていくのか。

 

さて、今の時代SNSで普及している共感の言葉。

例えば蛙化現象や脱毛、マナーや過大なバッシングなど挙げれば暇がありません。

これらは日本のどこかで起こった話、決して自分の体験談ではないのです。

 

勉学するにも話すにも、私たちは日本語を使います。

日本語特有の癖や、日本語特有の考え方は当然ベースに組み込まれます。

本来は言霊や犠牲といった内容も、日本の中では通常思想の一部でした。

 

さて日常使いで使われている言葉には、その人の考え方の解釈が宿ります。

即ち自らが自らを動かす言葉という訳で、スピリチュアル関係なしにこの概念はあります。

まあ理解し得ない事は、全て魔のせいだと思う人は一定数いますが。

 

見たいものを見て、信じたいものを信じた。

その結果、理想と現実の区別がつかず狼狽え、貴重な一生を自ら進んで破滅させる。

これは犠牲ではなく、ただの無常です。

 

見た出来事を勝手に信じ、それが当たり前だと現実に説き伏せた。

結果現実から突き放されたとき、また見た出来事に妄信しまた現実を説き伏せに行く。

このサイクルのどこに、礼や義や善が存在するのでしょうか。

 

しかし実を言えば、それは日本の環境にも一因があるのやもしれません。

敷地という安全地帯は、裏返せば現実は他人の所有するもので満ちている。

理想でしか自己発言ができない封鎖された社会は、さながら幕末開国前の日本でしょうか。

 

そして縛りも存在する。

日本人が愛してやまないルールは、本当に日本人が日本を思って作ったものでしょうか。

全ての事には意図があり、意味がなくてはやらない筈でしょう。

 

こんなにも沢山すれ違うのに、私たちはひた隠しに生きて、何も知らない。

その現実に見たいものを見て、信じたいものを信じた。それは独りよがりの精一杯の努力でしょうか。

 

お疲れ様です。

 

さて非常に、難しく考えていることを語ってみようと思います。

筆者の日本語遣いの至らなさは、お赦しをして頂ければ幸いです。

 

・自己と点

 

私は物事を知るときに、知り得た言葉を用いてイメージを復元します。

鉄の四辺体があれば、表の3面を見て裏の3面も同じであろうと定義します。

故に表から見た3面のみで、鉄の立方体であるという事を私が認識します。

 

しかし、裏の3面とは観測していないため真実か否かは不明です。

これを短絡的且つ社会命題として提起したのは、シュレーディンガーの猫でしょう。

即ち人の認知範囲とは、想像を含んだ世界認知である事が語られるでしょう。

 

しかし、ここには大きな欠落が存在します。

表の3面を見て簡易的な判断を下す事を、私たちの脳は正当化して考えます。

即ち世界不変ではなく因果律を含む世界事象を許容して、脳が効率化されているのです。

 

それは、見えるものの本質ではなく象られた事象から推察する断片で十分なのだと。

 

私が日本語に魅入られ自ら文を創るのは、日本語は本質を推察する文学だと感じているからです。

言葉が多様であれば、文の中で事象の点と点を類似関数で結ぶことができます。

日本語のひら・かな・漢字、そして文節に組み込んでも意味が通じる外来語を使える特有文節。

 

自らの思想の核となる、過去や経験からの憶測そして類似点を出すには日本語が最適解です。

しかし最小単位の点では、言葉の意味を理解するに過ぎない。

次に必要なことは文章として、自分と時間軸を掛け合わせる必要があると考えました。

 

・自己と円

 

物事には大きな枠組みとして、始点→動点→始点という始まって終わる事が円の運動のように表せます。

即ち脳の認識イメージも、始まりの固定位置があり、動き、そして元の場所に戻る必要があるのです。

しかし小さな時間軸では、それが途方もなく感じられ。断片を切り取ることになり、線のように表せます。

 

まるで、それは動画サイトの再生時間のように。

しかしそれは生まれて、見られて。見られたことによって生まれる、つまり繰り返す。

線は本来円であり、しかしその円を生む物体は時間と共に場所が移り変わっていきます。

 

それは私の体でも表せられるかもしれません。

 

腕を大きく回した時に、腕は必ず腰の横に下がった定位置から大きく回します。

しかし回した私自身が、老化していっているので必ず回せなくなる日が来ます。

ですが私以外にもその点たる言葉があれば、私でなくても【同じやり方で】できるでしょう。

 

しかし腕をある場所で止めるには、負荷が発生します。

つまり一連の円の中には流動の速さにも相違があり、一律の速度ではないということです。

でも円という動きの認識は他のものに引き継がれ無くならない、仮に私がいなくてもです。

 

このことから自己と認識は古来より言語のイメージから、円を描くように受け継がれていくものでしょう。

その円が歪であれば世界にある認識を現した点である言葉を、歪にとらえることもあるでしょう。

しかし私という短い時間軸で見た際、その帰結では私は満足しなかった。

 

・自己と真球

 

歪な円を描く不格好な球を多く見た私にとって、目指すべきは真球でありました。

真球とは認識の到達点であり、言語が完璧に構成された誰から見ても真理に見紛う知識です。

 

しかしそんなものは地球上には存在しない。宇宙にもないでしょう。

何故なら原子自体がそもそも真球ではない可能性のほうが高いからです。

動く、結合するというのは即ち外界の干渉を免れない。

 

如何に耐久度があろうと円の中では必ず朽ちて、再生するという分子の構造がある。

消費しているように見えて、空気中や地表に分子がまき散っているだけであり総数は変化していない。

そのような永劫を生きている原子は、真球であろうはずもないでしょう。

 

まあこの説でいえば、私の体を作っている原子のルーツは途方もないものになるのでしょう。

しかし真球ではない。私を構成しているものでさえも、歪みは必ずあるのでしょう。

では何を以って真球を定義し、目指すのか。

 

そう目指すしかなく、決して到達しないことを分かっていながら。

私は円を引き続け、自分の不格好な球をその線という傷の数を以って、真球を夢見て象っていくのです。