merlinus-stonehengeのブログ

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光があれば影があり、昼があれば夜がある。

 

お疲れ様です。

 

今回の無題は適当に書きたいことを書くとします。

題名を付けたところで、特段書く内容が変わるわけでもございません故に。

 

さて、昨今の話題になることは比較的マイナスな印象が強い文面が流れますね。

私の文脈もどちらかと言えば懐疑的で、この世界の良さに触れる記事は少ないです。

というのも、それは満ち足りていないと感じていることが起因しているのも事実でしょう。

 

珍しく私にしては少し前向きな文章を、書いてみることとします。

 

この時代における最も重要なことは、衣食住における生存条件の緩さです。

つまり職に就き続けなくても、最低限の衣食住を維持できる生活における要求水準の低さが美徳です。

例えば1000円あれば、海から遠い山名の中でもスーパーで鮮魚が買えるという奇跡。

 

私たちの世界で本来起こり得ない程の発展が、過去先祖すべからく羨む生活を万民に提供しているのです。

その世界で自分の追求を行わず、他責で誰かに縋る人間が多い事に嘆きを隠せないという事ですね。

家に帰れば酒が飲める、風呂に入れる、快適な温度で寝れる。労働に意欲が湧こうという物でしょう。

 

その一つ一つの幸せを、この生涯噛みしめれる奇跡に対して、私は常に感謝しているのです。

 

さて、ここで一つ問題を提起してみるならば。

何故この素晴らしい世界に生きている諸君が、楽しそうに生涯を全うする気概を見せてくれないのか。

 

それを私は少し考えてみたのです。

先ず私は教育という概念を疑い、私が独学で学んだのは江戸末期、明治初期の教育から昭和初期までの変化です。

当然研究できるほど時間もないので、本業の合間に少しづつ図書館やネットで知る事をして来ました。

 

教育における場というのは、家と学問の学びやたる学校の二軸におけるものです。

 

初期教育において最もの基軸は、人間の幼少期における本能行動の抑制と発散の方法に在ります。

家の家訓、つまりはしきたりを体で覚え、学校で本能を抑制し理性を学ぶ。

そして本能行動における最も簡潔な発散方法が、子供同士の遊びであるのです。

 

現代のように学校で先生を尊ばず、本能のままに遊びつくす事。

これでは本来学ぶべき理性を培わず、本能気ままに感情でなりふり構わず他責するでしょうね。

そして子供同士で遊ばず、ネットの不特定多数と知り合った気になるのも本能がむず痒く感じるのでしょう。

 

家に帰れども教育という人道の術を受けていない親には、当然子供の声など喧騒にしか聞こえんでしょう。

昨今で問題になっておるのは、こういった人間として持つ本能と理性が磨かれず育った者の末路です。

目先の金で尊厳を売る行為が、ネットで隠されずああも見えるのは全く嘆かわしい事ですね。

 

しかしそれでもそれでは立ち行きが行かんと、少しでも考える人たちがいる。

私は彼らに僅かな術を教え、そして切り離された知識を与える事を良しとするでしょう。

全ては自分の偽りなき心のままに。

 

お疲れ様です。

 

直近はAiというものが普及したことで、やはりといった問題が顕在化しました。

それはどんなもので、どういった内容なのか簡潔ながら言語化してみたいと思います。

すこし詩風を挟む描写もしますが、なにとぞご容赦ください。

 

先ず直面としてですが、AIがここ3年で大幅に普及し一般的になりつつあります。

それはまるで湖に投げ入れた小石の波紋のように、徐々に浸透していきます。

当然流れのない老いた思想には、静止水のように波紋はなく観測しきれぬものになるでしょう。

 

だがしかし若い思想にはこのAIは劇薬と成ります。

内省即ち幼き頃から道理を考えず、答えを他者に縋る行為をAIは恐ろしいほど助長させます。

AIを知った場合この世のすべては解析可能だと信じて疑わないでしょう、それは不敬なことに。

 

そしてここからはまさに本髄とする、AIを利用することによる合理的な解釈の歪みです。

本来人間は思考する生き物でありますが、人によっては盲目的な信仰と言わざるを得ない状態になります。

その時自分に起こる全てをAIが解釈し出した解を基にする、しかしAIは個別の解ではなく合理の解を解くでしょう。

 

AIは完全に見えてその実重大な欠陥があるとすれば、総意の写し鏡として機能するという事です。

例えば何かを作るプロセスにおいて、最適解は時代の先端を示すでしょうがそれは誰が聞いても同じ解です。

AIを縋った時点でAIを扱わない人間と差は生まれるでしょうが、AIを扱う人間同士に差は生まれづらい。

 

では元来何を以って差となっているのか、それは題名にもある理の破片を得た自我による内省の成長です。

大いなる理とは多々文化的及び文明的解釈はありますが、人間はその一部を抜粋し自己に適合させます。

それらを実践し生きた理の破片を担うことで、人の行動に差が生まれ得るものと仮定しています。

 

しかし先も述べた通りAIに縋る思考、即ちAIの総合知を大いなる理とした場合理の破片は同一になります。

そうなった際人間として考えることはなく、AIの入れ物として機能するただの肉片と成りうるでしょう。

その世界においては私にとって心底つまらないものであると、考えています。

 

お疲れ様です。

少し今回に関しては、未だ答えが出ないことに関して書いていこうと思います。

 

自分が無題と表する時、それは不完全な文体で在る事と同時に探索中の内容が多々あります。

それはある種の混沌である思惟の中から、抽出して言語化を無理やりしている為です。

その為この無題は以前から度々前振りにての通り、抽象度高く難解な内容が多く含まれます。

 

 

先ず余剰という物に対する事は、この世界においてかなり軽んじられている言葉で在ります。

例えばフードロスや人材の流動性等、余剰が前提の言葉が多岐にわたります。

私たちの先祖はこの余剰に対して、非常に洗練された価値観を思っていたように思えています。

 

しかしながら現代の人間において、この余剰に対する価値観は形骸化したとしか思えません。

例えば何かを大切にする心は、少しほつれただけで捨てられる服やカバンから見るに喪失しています。

我々の一般的価値観では、古い物を補修して使い続ける事は卑しさや貧困とみられがちです。

 

新品のカバンや服は確かに清潔感と関係性があり、この社会が如何に外見至上主義かわかります。

私たちが清潔感を維持しているこの社会は、余剰を前提に組まれたものであることとなります。

そしてその余剰の因果と成りうる人の欲望を社会が形として輪廻させる構造そのものを、資本主義と呼ぶのでしょう。


私たちの世界で一般的に普及している貨幣は、元々金貨という価値交換のベースがありました。

即ち金銭たる貨幣にそもそもの価値があり、それを交換していたという大本の構造があります。

しかし資源に限りがある上に外交において金貨を交換することは、自国の血肉たる貨幣の総数に影響します。

 

故に貨幣が概念的に価値あるものとなり、それを軽んじる行為は必ず刑罰が下されます。

それらは1951年に施行され今日に至るまで、貨幣はある種成功のシンボルとして信仰され続けています。

ただ紙幣という物は国内における循環よりも多くなった時、価値を乱高下させるものであります。

 

こういった我々が当たり前としている前提の余剰とは、我々が労働力の対価として得た金銭の余剰です。

その金銭自体が価値を概念的に有しており、それらが過剰に信仰されるようになったことが過去との相違点です。

例えば昭和と現行の令和にて大きく異なるのは、地域内での資本流動性と不安定さに起因すると感じます。

 

個人として集団に属せず、成功の信仰たる貨幣という幻想に縋りつくことが現代の病の一つであると私は感じます。

しかしそれはどちらかというと日本語における文体、即ち祈りの構造とはまた別の文節によるものだと思われます。

総じて現代の消費文化の背景は資本の余剰をベースにされ、人はそこに盲目的な信仰を余儀なくされているという事です。

 

 

長く散文を書きましたが、少しあとがきを書きます。

 

私は独学においてほしいままに勉学を愉しむので、何か特定の専門分野だとかそういったものはありません。

しかし全てにおいて本質に近しい思考ができれば、それはある種のすべてに対する答えを求めれると信じています。

人は勤勉において純粋でありそれらが見るべき人のみが分かれば良いと感じています。

 

故にやはりこの散文には、無題がふさわしいでしょう。