古城めぐり 今回は 愛知県新城市山城です
訪問城 地名
1. 古宮城 愛知県新城市作手町大字清岳字宮山
2. 亀山城 〃 字城山
3. 文殊山城 〃 字見徳
4. 川尻城 〃 高里字城山
訪問日 令和元年 11月 13 日 水曜日 快晴
一年のうち城めぐりに最もよい季節が到来しました。 秋晴れの一日三河の新城市作手町を訪れました。
一日に四件も行くことが出来ました。 この地方は武田信玄 徳川家康 の名前が頻繁に出て交錯します
戦略上譲れないところか 山間の中でも開けた収穫も見込める地域なのか この地方を治めた奥平氏をはじめ
山家三方衆など歴史的曲折が興味のある地区でないのか思いつつ 山城 歩きました。
最初は古宮城です
元亀4年1573年武田氏によって築城された。標高560m作手高原の平野部で比高30mしかない。 北、東、南側は
湿地で人は立てないぬかるみで近ずけない天然の要害 地通きは西側のみという独立広陵に築かれた。
わずか二年後武田勝頼が長篠合戦で敗北すると三河山間部の武田軍は徳川氏によって掃討され古宮城は廃城になった。
武田の城で大規模な土塁、堅堀が良好に残っている。
作手町 風景
古宮城 進入路
枡形 虎口
城内 一面 檜山林となっているが当時は見事な土木工事の人口山城を築いた
武田の特徴のひとつ 各曲輪は周囲土塁を巡らせている
当時を知っているか 大 檜
城内 当時の形態がそのまま残っています
正面入り口 白鳥神社
城 東面を望む 当時は一面湿地帯 です
入口の古宮城 次の亀山城の案内標柱 1500メートルの近さ
亀山城
応永31年1424年 奥平貞俊によって築城
群馬県から移住し川尻城を築きその後 亀山城に移りこの地に地盤を築き山家三方衆といわれ
る有力土豪になった。天正3年1575年徳川方となって長篠城主となった奥平貞昌が長篠の合戦
で功績をあげ奥平氏は歴史に名を残すこととなった。以後貞昌の四男松平忠明と通ずいた
曲輪 本丸は東西60メートル 南北28メートル周囲は土塁で囲われている
虎口は東西2か所。曲輪 2 は30メートル四方の不整形 曲輪 3は馬出と考えられる
曲輪 1で行われた発掘調査では生活に必要なものはほとんどなく亀山城は居住的な施設は
ほとんどなく軍事的な施設と考えられる
亀山城の入口で近くに道の駅的な売店、五平餅などたくさんの人で 賑わっている
本丸 虎口 進入路
土橋 跡
西曲輪
文殊山城
1570年~73年奥平氏が武田氏との和睦の証として築城予定だったが延引した。
武田の催促で一夜で築き一夜城と呼ばれていた。
ほとんど砦に近い。模擬の物見櫓がつくられている。中央に文殊菩薩が江戸時代中期に
奉納され祀られている
物見櫓からの景色
文殊菩薩
川尻城 鏑門
太平洋戦争 出征兵士の忠魂碑
川尻城 説明看板
おわり
次回 街道歩き 11月19日~20日