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ペテロの手紙シリーズ#17D
3. 信仰、希望、愛:
第一コリント13章13節にあるパウロの有名な徳の基本リストは、
信仰、希望、愛から成っています。
ペテロのリストと同様、パウロのリストも進歩的です。
愛は究極的な徳ですが、実際的には、その徳の採用は私たちの霊的成長に左右されます。
(その過程には、信仰と希望が前もって発達していることが必要です)
「これら三つのもの」は、
教会の初期、創建期の華々しい賜物が機能しなくなった後、
私たちに残されたものだとパウロは教えています。
キリストの体である私たちは、異言、預言、癒しなどの驚異を徳に置き換えるのです。
私たちが主と対面する主の再臨まで、私たちを支え続けなければならないのは、
からだのすべての成員によって実践される徳なのです:
- 信仰は、私たちの新しいクリスチャン生活の目であり、
神がこの世で私たちに歩ませる道を導くものです。(第二コリント4章18節,5章7節)
イエス・キリストを信じる者として、
私たちはこの世の反対の証言にもかかわらず、
神が私たちに語られたことが真実であるという確信、信頼、信仰を持ちます。
世は懸命に私たちの信仰を弱めようとしますが、
私たちは神が私たちに与えてくださった約束を信じます。(第二コリント7章1節)
キリストが私たちの代わりに死んでくださったので、
私たちの罪は赦されたと信じます。
キリストとその御業を信じる信仰によって、私たちは永遠に生きることを信じます。
たとえ塵となったとしても、今私たちが住処(すみか)としている
この一時的な体は、決して朽ちることのない、
栄光に満ちた永遠の住まいへと変えられることを信じます。
私たちは、この世のすべての悲しみ、涙、苦難は、
来るべき永遠のいのちにおいて永遠に過ぎ去ることを信じます。
(黙示録21章4節)
私たちは、キリストが私たちのために場所を用意し、
私たちがキリストと永遠に共にいることができるように、
私たちよりも先に行かれたことを信じます。(ヨハネ14章2-3節)
神が私たちに約束してくださったので、
私たちはこれらすべてを信じます。(ヘブル11章6節)
私たちは神の御性質と御言葉の真実を信じます。
人生の試練にもかかわらず、私たちは信仰を堅持し、
その試練に耐えることによって信仰を強めていくのです。
私たちが真理を知っているのは、それを数値化できるからでもなく、
証明できるからでもなく、経験的な証拠を提示できるからでもなく、
まったくその逆なのです。(ヘブル11章1節)
私たちに必要な唯一の証拠は信仰であり、
それ自体で自足できるものではなく、神ご自身のご性質に根ざしたものなのです。
私たちには信仰が、神と御子イエス・キリストと、
聖典に記されている約束とに対する信仰が与えられています。
信仰は、人生の失望や心痛に耐える力を与えてくれます。
私たちが経験するすべてのことを、
神が私たちの究極的な益のために命じておられると信じるからです。(ローマ8章28節)
- 私たちの心が、神が私たちに約束してくださった、
目に見えない、栄光に満ちた未来の現実を受け入れようと手を伸ばすとき、
希望はそのまま信仰に溶け込みます。
信仰が神とその御子イエス・キリストの人格と品性に確信と信頼を置くように、
希望はその信頼を永遠へと、来るべきいのちの驚くべき約束へと集中させるのです。
希望は地上の悲しみのベールをレーザーのように切り裂き、
完全な体を持って、すべての聖徒と共に
永遠に主の御前にいるようになるという言い表しがたい喜びに焦点を合わせます。
希望とは、永遠を見通す私たちの「信仰の視力」の一部であり、
目に見えない不思議の現実を確証するものです。(ローマ8章23-25節)
私たちの希望は空虚な夢ではなく、目に見えない現実であり、
それによって私たちはこの世を去り、
主の御前で永遠に私たちのものとなる永遠のいのちの
新しいからだを身につけることを切望し(第二コリント5章1-9節)、
この世のはかない宝に目を向けるのではなく、
モーセのように、神が私たちに与えてくださる報いに目を向けるのです。
私たちのこの希望、
すなわち、神がこれらのすばらしい約束をすべて実現してくださるという確信は、
私たちの思いを、主がすでに万物を準備するために
私たちよりも先に行っておられる天に固定するのです。(ヘブル6章18-20節)
- 愛は、成熟への歩みの中で、この希望の上に築かれます。(コロサイ1章4-5節)
神への完全で完璧な信頼があり、
私たちの目が真実で永遠の現実にしっかりと据えられていれば、
私たちは自分の内にあるすべてをもって主に感謝し、主を愛し、
その愛を他の人にも反映させる用意ができているのです。(マタイ5章14-16節)
愛は神から始まらなければなりません。(第一ヨハネ4章19節)
神は愛であり、神がそれを与えてくださったからこそ、
私たちは愛することができるのです。(第一ヨハネ4章7-8節)
私たちに対する神の愛の中心は、私たちの身代わりとなって死んでくださった
御子イエス・キリストという賜物です。(ヨハネ3章16節)
私たちがまだ敵であった時に、私たちを死の力から救い出してくださった方を、
どうして愛さないことができましょう。(ローマ5章8節)
その結果、私たちは、イエス・キリストの愛に満ちた犠牲によって、
神が私たちに与えてくださった救いに感謝と喜びを感じるのです。(ヨハネ15章13節)
イエス・キリストを信じる者としての私たちの究極の戒めは、
神が私たちに注いでくださった、同じ不思議な愛を仲間の信者に示すことによって
反映させることです。(ヨハネ15章12節)
愛は徳の中で最も偉大なものであり(第一コリント13章13節)、
他のすべての徳をまとめ、キリストが私たちに歩ませようとされたとおりに
私たちが歩んでいることを保証する成熟の「接着剤」です。(コロサイ3章12-14節)
信仰は、神の信頼性に焦点を当てます。
信仰において私たちが神に従うのは、神を信頼するからです。
希望は、神が私たちに約束してくださったことに焦点を当てます。
この人生を喜んで耐えるのは、永遠にもっと良い物が約束されているからです。
愛とは、神がイエス・キリストにおいて私たちのためにしてくださったことに感謝し、
その感謝を他の人々に反映させることです。
主と主の教会に愛をもって仕えるのは主がまず最初に私達を愛してくださったからです。
これらの三つの徳は、私たちの思いから決して離れてはならないものです。
この三つの徳があれば、
私たちの心はこの世の厳しい表面を剥ぎ取り、
神のご性質、神のゆるぎない約束、神のはかりがたい愛という、
目に見えない大切な現実をはっきりと見ることができます。
信仰、希望、愛は、私たちが常に思いを向ける「経路」であるべきです。
これらは、私たちがクリスチャンの歩みを絶えず評価するための試金石なのです。
--ペテロ17Eに続く
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まだ見ていないものを信じるということは
時に難しく、簡単に疑ったりしてしまうものですね
しかし、そんな弱ささえも愛して下さる方がいる
それは、イエス様
そして、
多く赦されたものは、より多く愛するようになるのですね
万物の終りが近づいている。
だから、心を確かにし、身を慎んで、努めて祈りなさい。
何よりもまず、互の愛を熱く保ちなさい。
愛は多くの罪をおおうものである。
(第一ペテロ4:7-8)
感謝します
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「スーパーブック」子供用のアニメですが、宜しかったらご覧ください
今年の初めて見たソメイヨシノ
他の桜の木は、まだ蕾だったけど、日当たりの良いところの一本だけ
花を咲かせていたよ
これは、葉の色が少し赤紫の桜です
なんて言う名前なのかしら
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わたしはしらないにゃ~
今日もありがとう~