”(ひとしずく・③闇の中でもつまずかないために)ユキちゃんにも分けてあげるね” | sarah‐mercy

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イエスの愛と共に
猫にも花にも愛は注がれている

 

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(抜粋)

右差しパート②からの続き

 

~友人からのメール~

 

「闇の中でもつまずかないために」

                (2019年3月2日 東京でのクラスより パート3)

 

 

 すべての人を照すまことの光があって、世にきた。

                        (ヨハネ1章9節)

 

 

イエス様は全ての人を照らすまことの光です。

全ての人を照らすのです。

私たちを造られた方は、「あなたには光が必要なんだよ」と、

それを与えてくださるために来てくださいました。

光がなかったら私たちは闇を歩くことになるからです。

 

今までは何とか守られてきたかもしれません。

しかし今は不法がどんどん蔓延ってきていて、世の光が消えかかっています。

その時に、その人のうちに光がないとつまずいてしまうのです。

多くの人がつまずいています。

そしてこれからもっともっと多くの人がつまずくでしょう。

 

終わりの時には、

自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、高慢な者、

神をそしる者、親に逆らう者、

恩を知らぬ者、神聖を汚す者・・・であることが当たり前のようになってしまいます。

今すでにそうなってきていますよね。

そうでない人を探すのが大変なくらいです。

そうでないと、生きていけない時代です。

「自分のことを第一に考えなさい。他の人のことなんて考えていたら、

 あなた生きていけないよ」と。

それは賢い生き方のように思えますが、つまずいているのです。

賢いのではない、暗闇でつまずいているのです。

 

イエス様は闇に輝く光、すべての人を照らす光として世に来てくださいました。

しかし、多くの人々は「よく来てくれましたね」

と光であるイエス様を迎え入れませんでした。

 

「彼(イエス)は自分のところにきたのに、

 自分の民は彼を受けいれなかった。」

                  (ヨハネ1章11節)

のです。

どうしてでしょう?

それは罪に浸かっていたからです。

あまりにも罪にどっぷり浸かっていると、光がうさんくさくなってしまうのです。

「悔い改め? めんどくさい。私は私、自分の好きなように生きたい」と。

 

それが人間の罪深い性質ですよね。

正しい道ではないと知りながらも自分を正当化したい。

自分の醜いところにはふたをしておきたい。

それが罪びとの姿です。 アダムやカインがした反応です。

 

神は私たちをそんな罪の状態から、救い出されました。

私たちはその恵みに与かっています。

この方こそ、私たちを救いあがない出してくださった方、

私たちはこの方を信じています。

そうでなかったら生きていられません。

 

もし主を知らないなら、何が希望ですか?

だましだまされ合うことがこの世では当たり前のことで、

自分もだましだまされの世界で傷つけ合いながら生きる。

何のために生きているんですか?

ここに何の希望がありますか?

 

イエス様は、このように罪深い有りのままの私たちを受け入れ、

このような状態から救い出し、

私たちが新しい人生を生きられるようにしてくださいました。

全てを新しくしてくださったのです。

 

 だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。

 古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである。

                              (第一コリント5章17節)

 

しかし、私たちは新しくされた者らしく生きているでしょうか?

「愛する者は神を知っている」(第一ヨハネ4章7節)と聖書にありますが、

神を輝かす人がとても少ないです。

 

主の御霊はこの世がどうであってもそれを助けてくださいます。

でも私たちが自分の内にあるこの宝、神の力に目を留めていないと、

自分の使命、神の恵みのうちにいることを忘れてしまいます。

自分と共におられる方が神であって、この方が自分に語りかけてくださるということも。

 

この世が自分にとってあまりにも大きくなると、神が小さくなってしまうのです。

この世に飲み込まれていると、神のことや神の言葉、

そして神に与えられた恵みのことを忘れてしまいます。

そして、経済的な心配や人の目の恐れなど、世のわずらいで縛られてしまいます。

 

神のことは知っていても、神の御心に生きられない。

それでも何とか神様のご機嫌もとりながら最低限のことをしてやり過ごす。

これは神の子としての歩みではないですよね。

神を神として認めている人の信仰の生き方ではありません。

 

あなたがたは世に打ち勝ったのだ、という状態ではありません。

この世に飲み込まれていますよね。

神を怒らせないように、機嫌をとるためにやらなくちゃいけない、行わなくてはならない、

という宗教になってしまっています。

イエス様は命を投げ出して、私たちとの関係を回復してくださった。

この恵みのうちに生きることがクリスチャンの信仰です。

 

私たちは恵みのうちに救われ、その恵みのうちに生きています。

主はこの罪に汚れた世、罪に汚れてしまった私たちのところに、降りてきてくださった。

そして私たちの内に宿ってくださった。

すごいですね。

この神が私たちの内に宿ってくださっているなら、

私たちが世間で言う立派な人である必要はありません。

パウロは、こう言っています。

 

 「兄弟たちよ。あなたがたが召された時のことを考えてみるがよい。

 人間的には、知恵のある者が多くはなく、権力のある者も多くはなく、

 身分の高い者も多くはいない。

 

 それだのに神は、知者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、

 強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、

 有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、

 すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである。」

                            (第一コリント1章26~28節)

 

 

大切なのはこの神の恵みなんですよね。

闇を打ち破る神の光なのです。

学問がなくてはいけない、有名な人でなくてはいけない、ポジションがなくてはいけない、

全部いらないです。

私たちに必要なのは光です。

光さえあれば闇は退散します。

 

先日、サバイバルのためにとってあったろそくに火を灯してみたんですね。

何時間くらいもつのか試すために。

部屋の明かりを全部消して。

その時思ったのですが、光というのは、LEDの明りでなくても、

この小さいろうそくの光であれ、

薪ストーブの光であれ、何の光であっても闇を照らすということです。

あなたの光、私の光、関係ありません。

誰の光でも関係ないのです。

 

それは、その人が神様との繋がりのうちに、

神の恵みを讃え、神の恵みに信頼している姿です。

そしてその喜びをもって、他の人に

「神はあなたを愛しています。

  あなたには希望があります。」と伝える。

これがです。

また「誰もこれをしないけれど、

  イエス様は私にそう語っているから私はこれをやります」

これです。

「もう、そんなのはかまわないじゃないか」

と皆が言っても

「いや、これを必要としている人がいるから私はこれをやります」

これです。

「皆がしていることだけれど、傷つく人がいるから私はこれをしない」

これもです。

イエス様に従っていく光、闇に輝くともしびです。

 

主の御心を行う、そのために私たちは召されています。

そしてこれはどこでもできますよね。

都会でも田舎でも関係ありません。

 

イエス様が私たちの前に連れて来てくださった助けが必要な人を助ける。

イエス様がするよう語られたことに従っていく。

全知全能の神、イエス様が私のうちに生きていて、語ってくださるのですよ、

喜びでいっぱいじゃないですか?

 

私を赦してくださった方、そして今なお、私を赦してくださり、

私のためにとりなしてくださり、

あなたを決して離れず捨てないと言ってくださる方が共にいてくださるんですよ。

希望を持たざるを得ないのではないですか?

だから、私たちはいつも喜んでいられるのです。

どんな状況にあっても神の平安を持っていられるのです。

 

このイエス様を伝えるときに、かえって学問なんてないほうが、光がもっとよく見える。

「何であなたごときが?」

私ごときでいいのです!

なぜなら私たちが輝かせたいのは私の立派さではないでしょう?

イエス・キリストです。

私を愛し救ってくださったこのイエス・キリストに、あなたも触れてほしいのです。

これが証です。

 

最後に二つの聖句を読みましょう。

 

 あなたがたは神の宮であって、

 神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。

                          (第一コリント3章16節)

                                           

 しかし、まことの礼拝をする者たちが、

 霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。

 そうだ、今きている。

 父は、このような礼拝をする者たちを求めておられるからである。

                               (ヨハネ4章23節)

 

 

すごいですね。

私たちは神の宮なのです。

神の霊が私たちの内に宿っているのです。

この神を私たちは礼拝するのです

イエス様が私の内に住んでくださっている。

これを私たちが喜び讃美する。

それが本当の礼拝なのです。

どこかの建物や場所に行かないと、神を体験できないのではないのです。

人々は私たちと出会うことで神に会う。

そこに神の宮があるのです。

 

昔、神の幕屋に、神の御臨在、栄光が輝いていましたよね。

私たちがその神の幕屋であり神の宮なのです。

人々がクリスチャンのそばに来たとき、私たちの内に神の御臨在、栄光を感じる。

これが証だと思います。

 

私たちは何のために生きているのか?

食べるにも飲むにも何をするにもすべて神の栄光をあらわすために生きているのです。

神を礼拝しつつ、

「私の内に宿り、今日もあなたのみわざを行ってください」

聖霊の導きに従って生きることです。

そうするなら聖霊が力を与え、神によって御業がなされていくのです。

 

どうか私たちが、自分の内に宿ってくださる神の光を掲げ、

闇の中にあってもつまずくことなく、

また他の人にもこの光を分け合うことができますように。

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日々のデボーションの為には右差し【休息と癒し】のサイトに毎日掲載されている

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右差しはじめての方へ | 休息と癒し (kyusokutoiyashi.jp)

 

 右差し「ダーク・トゥ・ライト」https://darktolight.jp

私達が主の御声を聞くことにおいても成長できますように。

また、ご意見、ご感想、またオーディオクラスに関心のある方、

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今日の「ひとしずく」

イエス様を心に受け入れたクリスチャンとして、耳の痛い話だったでしょうか?

それとも、

「私の内に宿り、今日もあなたのみわざを行ってください」

聖霊の導きに従って生きることを選ぼうと思った、励ましとなる話しだったでしょうか?

 

私は、そのどちらも感じました(痛いよぉ~(;O;)

耳に痛いけど、これからのことを考えると励ましとなりました

これから益々深まる闇の中で、つまずかないために先延ばしにできないことですから

この世にのみこまれる前に、主の光を手に取り、かざし続けないといけないですね

 

私にはできません、しかし主が助けてくださることを知っています

イエス様は、私を愛しておられることを知っています

 

感謝します

ハート ハート ハート ハート

(抜粋おわり)

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昨日は強風でドアがバタンと開いたり、駐車場のシャッターが開いたりと

交通網も乱れたようですね

姉から食料の荷物が届いたので、買い物行かずに済みました

ありがとう~飛び出すハート (いつもタイミングが良いのです)OK

今日も感謝です✨

 

いつも与えられるばかりで、

私は何も出来ないなぁ‥‥と思うけど

私には祈ることができる!

お祈りしていますお願い

 

十字架の言は、滅び行く者には愚かであるが、

救にあずかるわたしたちには、

神の力である

(第一コリント1:18)

 

感謝します

*:..。o○☆゚・:,。*

 

椿の木から光が覗いてる✨

 

 

 

 

 

風で落ちた椿の花が、紫陽花の枝の間から覗いてのランプみたい✨

落ちても尚、光に照らされると輝いているキラキラ

 

 

 

 

       あれはてなマーク フェンスから、可愛いはなが覗いてるわんわん(´艸`*)

       今日もありがとう~ラブラブ