からの続きです
天の前奏曲:第2部B:パート4
天の神殿の型としての地上の幕屋と神殿:
b. 青銅の祭壇:
天の神殿には、祭壇に相当する物がありません。
それは、この祭壇が十字架を象徴しているからで、
キリストが私たちのために犠牲になった場所であり、地上での犠牲が達成された場所です。
(第一コリント5章7節; ヘブル9章11-14節; 第一ペテロ1章19節)
この祭壇は「香の祭壇」と区別されます。
香の祭壇は、後述の黙示録4章に登場する祭壇と同じものです(下記参照)。
c. 洗盤:
これはソロモンの宮の中庭にある「海」とも呼ばれています
(列王記上7章23-26節; 列王記下16章17節; 歴代誌下4章2-5節; エレミヤ27章19節)。
洗盤は、地上の宮にある物品の中で、
天上の神殿において同じ向きで置かれている唯一のものです。
宮が地上を表している以上、神の天の神殿にある類似した「ガラスの海」と
洗盤の海との関係について、ここで簡単に説明する必要があります。
黙示録4章6節にある「水晶に似たガラスの海」とは、
実は天の上層の水のことで、それは空と宇宙の二つの天と、
神の神殿の場所である第三の天との間にある天の円形の「丸天井」を形成する
「上の水」です(創世記1章6-7節; イザヤ40章22節)。
したがって、天の海では、いわば天の「上の水」を見ているのです。
この天の海を象徴する地上の洗盤が凹型(真鍮の容器)と
平型(水の上面)であることも重要で、
この二つの部分はそれぞれ、真の天の姿の重要な部分を表しています。
青銅は天の大空を表し、水はその上の天の海を表しているからです(参照:イザヤ40章22節)。
天の神殿である第三の天から見れば、天の海の平らな面はすぐに目に入るものです。
しかし、地上にいる私たちから見ると、天は凹んだ形をしており(空を見上げるとわかる)、
幕屋の青銅でできた水の入った半球もその凹んだ形を表しています。
彼[が]地の円(地上から見た天の「円形の天蓋」)の上に[座して]おり、
その住民は[彼の目には]バッタのようである。
彼は(詩篇104篇2節参照)天を幕のように張り巡らし、
天幕のように広げて住まわれる方です
(つまり、第三の天から見下ろす天の海と大空を合わせた「平らな」姿のこと)。
(イザヤ40章22節 英文直訳)
どちらから見ても異なる外観を示す二つのものの複合体として捉えたものであり、
天と海が、幕屋と神殿の組織において、
このように二重に表現されるのは驚くべきことではありません。
つまり、幕屋の幕が第三の天からの眺めを表し、
洗盤の海が地上からの眺めを表しているのです。
さらに重要なことは、この二重の表現が、
人間と神との関係の二つの異なる側面を強調していることです。
一方では、「天の水」と「天<複数heaven>の大空」は、
第三の天にある神の「住まい」と地上にある人間の住まいを地理的に
分離する役割を明確に果たしています。
<幕屋の中は厚い垂れ幕により、手前の聖所と奥の至聖所に仕切られていましたが>
祭司だけが行ける幕屋の垂れ幕の外側<聖所>と
大祭司(昇天したキリストの予型)だけが行ける垂れ幕の内側<至聖所>は、
聖なる神と罪深い人間との分離という原理を効果的に伝えています。
一方、天は神の栄光を映し出し、全人類はその証しによって神を認識しています
(ローマ1章18-20節; ヨブ記38章1-38節; 詩篇8篇1-4節;19篇1-6節, 97篇6節;
使徒行伝17章24-31節参照)。
青銅で作られ、水で満たされた海は、鏡のように反射する性質がありました
(実際、元々は鏡で作られていました:出エジプト記38章8節)。
洗盤の海を見つめる者は、自分自身と天空を映さずにいられませんでした。
このように洗盤の海は、その独特の反射性によって、
罪深い人類が、神と私たちの間に立つ神の素晴らしい天を背景に、
自分自身を見つめるという象徴を効果的に伝えています。
ちなみに青銅は裁きを象徴しており(例:火炉の祭壇)、
この比較の悲惨さを際立たせています。
ですから、洗盤の海を見下ろして天の反射を見るにせよ、
天を見上げるにせよ(天は分離幕で表現されています)、
人は自分の欠点のある性格と神の完全な性格を理解することを余儀なくされ、
その結果、神の恵み深い助け、
すなわち御子である私たちの主イエス・キリストの御姿にある
永遠の命を受けるための適切な心構えを持つようになるのです。
このように、私たちがこれらのことを正しく「熟考」するとき、
正しい反応は、救いと赦しを求めて信仰をもって神に立ち返ることです
(洗盤での清めの水による洗いで表されます:エペソ5章26節参照)。[1]
この洗盤の海に見られる反射の象徴は、天の特質としてよく証明されているもので、
天は神ご自身の証しを常に世に「注いで」います
(したがって、私たちが所有する神の最高の
「反射鏡」である神の御言葉はその代理なのです;
詩編8篇1-4節, 97篇6節; ローマ1章18-20節を参照)。
(1) もろもろの天は神の栄光をあらわし、大空はみ手のわざをしめす。
(2) この日は言葉をかの日につたえ、この夜は知識をかの夜につげる。
(3) 話すことなく、語ることなく、その声も聞えないのに(=天・大空)、
(4) その響きは全地にあまねく、その言葉は世界のはてにまで及ぶ。
神は日のために幕屋を天に設けられた(すなわち夜空の天/おおぞらの中に隠された)。
(5) 日は花婿がその[結婚の]祝のへやから[輝き]出てくるように、
また勇士が競い走るように、その道を喜び走る。
(6) それは天のはてからのぼって、天のはてにまで、めぐって行く。
その暖まりをこうむらないものはない。
あなたは[金属を]鋳た鏡のように堅い大空を、
彼のように張ることができるか。
(ヨブ37章18節)
(22)そして、御言を行う人になりなさい。おのれを欺いて、
ただ聞くだけの者となってはいけない。
(23) おおよそ御言を聞くだけで行わない人は、
ちょうど、自分の生れつきの顔を鏡に映して見る人のようである。
(24) 彼は自分を映して見てそこから立ち去ると、そのとたんに、
自分の姿がどんなであったかを忘れてしまう。
(25) これに反して、完全な自由の律法(すなわち,心の完全な鏡である聖書)を
一心に見つめてたゆまない人は、
[みことばを]聞いて忘れてしまう人ではなくて、
実際に[みことばに霊感されて]行う人である。
こういう人は、その行いによって祝福される。
わたしたちは、今は、(天国のことを)
鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。
しかし(主に会う)その時には、
顔と顔とを合わせて、(主を)見るであろう。
わたしの知るところは、今は一部分にすぎない。
しかしその時には、わたしが完全に知られているように、
完全に知るであろう。
[1] この原則は救いにも当てはまり、告白による罪のきよめにも当てはまり、
洗盤は確かに象徴的なきよめのために用いられました
(出エジプト30章19-21節とヨハネ13章1-20節を比較してください。)
--パート5に続く
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子供の頃、裏山から見下ろせる広がる海を眺めるのが好きでした
水平線がどこまでも続いて、感覚的に地球は丸いんだなぁ・・・と感じました
青い海と青い空の境界線が分からなくなるほど、
空が海で、海が空のように見えたりもしました
夜は部屋の窓から出られる屋根に上って、夜空を見上げるのが好きでした
自分のいる地球よりも、宇宙はずっとずっと広がっていて
どこまであるんだろう?と思ったものです
ヨハネが第三の天まで引き上げられて見たものは
想像を絶する光景だったことでしょうね
今は鏡を映しておぼろげに見えている世界が
(しかも、ヨハネの時代の鏡は今ほどクリアじゃない)
天国でははっきりと見ること、知ることが出来ることを
感謝します
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(2019年2月ももちゃん)
今日もありがとう~