(ひとしずく・信仰のテスト-2) | sarah‐mercy

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イエスの愛と共に
猫にも花にも愛は注がれている

 

からの続きです

 

~友人からのメール~

 

信仰のテスト-2 

 

(先の「信仰のテスト‐1」のクラスに)付け加えておきたかったことは、

主の召しに応えて信仰のステップを踏んだからといって、

すべてのことが問題なくスムーズに運ぶと思い込まないということです。 

教会は、問題を避けてその信仰を建物の壁の中に留めようとしました。

ラオデキアの教会の問題は、その生ぬるさです。

イエス様は、がまんがならず、吐き出すと言っている存在です。黙示録3章14-22節) 

 

義を行い、真の平和を求める者で、迫害を通過しなかった人達がいるでしょうか?

第二テモテ3章12節参照) 

使徒全員が迫害を通過し、またほとんどが殉教をしました。 

平和の福音をわたしたちは伝えますが、それを受け取る人にとっては、命ですが、

それを伝える者にとっては代価がかかります。

(ピリピ2章16,17節;第一コリント15章31節;第二コリント4章10-12節参照)

 

本当にそれをするとき、福音の敵のような人達、

つまりサタンの手下としての働き人のような人達は、戦いを挑んでくるのです。

ですから、平和を求める者に対して、真理を拒む者たちは、

(つまり自分達の悪を改めなければならない者達)戦ってくるのです。 

 

ですから、「平和の靴」の意味を履き違えないようにしなければなりません。

平和の福音のために働いたのに、平和ではなく敵に囲まれてしまった、

かえって問題ばかりかかえてしまっているように思える...

自分は何か間違ったことをしているのか?というふうに思う誘惑に駆られたり、

また悪魔の口としてそのようにあなたを説得しようとした人が現れても、

それを信じるべきではありません。 

 

主がいよいよ、自分の任務を果たそうとしておられた時、

十字架につけられることになると弟子たちに言った時、

一番弟子であるペテロの口から、サタン自身が語っていたのです。

人間的には、よく聞こえる説得でも、

神の召しを果たそうとしている者にとって、

妥協して神の召しを捨てるようにという誘惑はよくあるのです。

マタイ16章21-23節参照

だれでも、神の召しに真剣に応えようとする者は、

このような類のテストを多かれ少なかれ通過していることでしょう。

そしてそのテストはよく、自分が信頼している人や親しい人、

本当だったらその狭い道を進むのを理解してくれるべきリーダーと思える人達が、

その道に立ちはだかるのに使われるのです。

マタイ10章34-39節参照) 

 

今では、真の平和を求める者達、危険を察知して人々に注意を呼び掛ける人達は、

社会の秩序を乱す悪者とされるプロパガンダがあります。 

いわゆるディープ・ステイトと呼ばれる者達がマスメディアを牛耳ってきたからです。

マスコミや大多数、また広い門から入るようにと唱道する人達についていくなら、

まことの神への崇拝につながりません。 

 

私たちは、ただ人間の物理的な安全のためだけではなく、

霊的に健全な者となるために、この世が実際にはどういうものであるか、

この世の霊に従っていてはいけないということを伝えていかなければなりません。 

単純にただ、食品に体に良くないものが入れられているとか、

ワクチンは実はこれこれだった、だから健康がおかされた、

あるいは死に至ったということを告げる以上のこと、

つまり肉においてはこの世の中にあって生きていても、

(良い市民として平和をもたらす者として)

霊においては、この世の霊と決別している必要があります。

ヨハネ15章18,19節;ローマ12章1,2節;ヨハネ16章33節参照) 

 

パウロは、イエス様を信じて救われていない人達は、

神様にとっては霊的に死んでいるも同様な状態だと言っています。 

 

 さてあなたがたは、先には自分の罪過と罪とによって死んでいた者であって、

  かつてはそれらの中で、この世のならわしに従い、空中の権をもつ君、

 すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って、歩いていたのである。

 

 また、わたしたちもみな、かつては彼らの中にいて、

 肉の欲に従って日を過ごし、肉とその思いとの欲するままを行い、

 ほかの人々と同じく、生れながらの怒りの子であった。

                           (エペソ 2章1-3節

 

神の目から見たら「死んでいた者」であるということは、恐ろしいことです。

そして神の霊ではない霊、つまり悪魔の霊に従って行動していたわけです。

でも、これは世界中の人達のこと、

イエスによって救われていない人達(つまり自分の罪の赦しを受けていない人達)は、

ある面では、死んでいるのに、

この世の霊に操られて動いているというようなものです。 

これが実態であることを知っているなら、

私たちは、真剣になって真理を伝えなければなりません。 

 

今までやりおおせれた者、どっちつかずでも何とかやってきた人達も、

これから(もうすでに)かなり厳しい状態に追い込まれてきます。

それは悪霊の働きが激しくなってきているからです。

あちこちで兆候が見られます。 

戦いが熾烈になってきているのに、「平和だ」「無事だ!」ではないのです。

(第一テサロニケ5章3節) 

「はい、イエスにあって私たちは大丈夫です。」

しかし、私たちはイエスに対して必死にしがみついているでしょうか? 

そうでないなら、きっと敵が本気だということに気づかされる目にあうでしょう。 

「平和だ」「無事だ」という言葉は、

眠っていて何が起こっているか鈍感になっている

ラオデキア教会のようになってしまっているからかもしれないと、思うべきです。

黙示録3章14-22節) 

 

 すでにこの世と妥協するように仕向けられてきた人たちにとっては、

妥協以外の道は、トンデモない道です。

しかし、主に従っていった人達、

ヘブル書11章に書かれている人達は、みなトンデモない召しを受けました。 

 

 邪悪なことをしている王に、「平和」「大丈夫です」というメッセージを

言う者達は偽り預言者でした。

真の数少ない、ある場合は一人しかない状態で、

神はそのわずかな者達をつかって、世の人達に警告を与えました。列王記上22章) 

 

 邪悪さの上に、平和を築くことはできません。

平和の福音の種は、

「悔い改めなさい」「神に立ち返る」ことを呼び掛けることです。

最初に神のものではない基礎は取り壊され、引き抜かれなければなりません。

預言者は、これを伝えました。

エレミヤ1章9,10節)(エペソ5章10-14節) 

 

 パウロもこの任務について次のように述べています。 

 

 わたしたちは、救われる者にとっても滅びる者にとっても、

 神に対するキリストのかおりである。 

 後者にとっては、死から死に至らせるかおりであり、

 前者にとっては、いのちからいのちに至らせるかおりである。

 いったい、このような任務に、だれが耐え得ようか。

                         (第二コリント 2章15-16節

 

 福音を受け入れる者にとっては、命ですが、

拒む者にとっては死です。

福音を拒む者にとっては、福音は惑わしであり、忌まわしい教えとなります。

なぜなら、真理をこばんだため、惑わす霊が送られるからです。 

 

 不法の者が来るのは、サタンの働きによるのであって、

 あらゆる偽りの力と、しるしと、不思議と、

  また、あらゆる不義の惑わしとを、滅ぶべき者どもに対して行うためである。

  彼らが滅びるのは、

 自分らの救となるべき真理に対する愛を受けいれなかった報いである。

 そこで神は、彼らが偽りを信じるように、迷わす力を送り、

  こうして、真理を信じないで不義を喜んでいたすべての人を、さばくのである。

                             (第二テサロニケ2章9-12節

 

 ある人はこの聖句の「不法」というものが、

モーセの律法、十戒から離れること、これらを破ることであると思っているようですが、

使徒たちが、救われた異邦人たちに、十戒を守ることは求めませんでした。

使徒行伝15章19,20節) 

律法主義に陥るなら、キリストの恵みから落ちてしまいますガラテヤ5章4節)。 

 

 第二テサロニケの2章「不法」は、

その「不法」の言葉の次につづく箇所に

サタンの働きによるのであって、あらゆる偽りの力と、しるしと、不思議と、

 また、あらゆる不義の惑わし..」とあり、

今世界でなされていることは、

こうしたことで、偽り惑わしが盛んになってきています。

不法の秘密の力が勢いをましていることを数多くの「時のしるし」から

見分けることができると思います。 

 

 救いでも答えでもないものに、人々の注意を向けさせていて、

真の答えであり真理であるキリストの福音に覆いをかけてしまっています。

第一ヨハネ4章2,3節参照) 

  

 ですから平和の福音を伝える者には、

たくさんの困難が待ち受けているのです: 

 

 しかしあなたは、わたしの教、歩み、こころざし、

 信仰、寛容、愛、忍耐、

  それから、わたしがアンテオケ、イコニオム、

 ルステラで受けた数々の迫害、苦難に、

 よくも続いてきてくれた。

 そのひどい迫害にわたしは耐えてきたが、

 主はそれらいっさいのことから、救い出して下さったのである。

 いったい、キリスト・イエスにあって信心深く生きようとする者は、

 みな、迫害を受ける。

            (第二テモテ3章10-12節

 

 

真理を伝える者にとって信仰のテストがあることは、

いつの時代でもそうでした。

国の滅亡を預言し警告を与えた預言者だけではなく、

最初の福音が伝えられた時、またイエス様以降の歴史においても、

真の信者の福音伝道、聖書の学びの集まりは迫害の対象となってきました。 

私たちは、ますます不法がはびこる終わりの時にあって、

身をひきしめていくことが肝心なのです。  

 

以下の言葉は、かつてなかったほどに

心に留めてそれに生きていく必要があるでしょう。 

平和の福音を伝えるつもりなら、

敵の攻撃に対抗するあらゆる備えをしておくべきです。

生半可な態度では自らに禍を招くことになります使徒行伝19章13-18節参照) 

 

 最後に言う。

 主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。

  悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。 

 

  わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、

  もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、

 また天上にいる悪の霊に対する戦いである。

 

 それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、

 堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい。

  すなわち、立って真理の帯を腰にしめ、正義の胸当を胸につけ、

 平和の福音の備えを足にはき、 その上に、信仰のたてを手に取りなさい。

 

  それをもって、悪しき者の放つ火の矢を消すことができるであろう。

  また、救のかぶとをかぶり、御霊の剣、

 すなわち、神の言を取りなさい。

               (エペソ6章10-17節

 

主が、主についていく者たちと共にいて、

恵みと平安で満たして下さいますように。 

 

 

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日々のデボーションの為には右差し【休息と癒し】のサイトに毎日掲載されている

過去記事の「ひとしずく」も、どうぞお役立てくださることをおすすめします

 

右差しはじめての方へ | 休息と癒し (kyusokutoiyashi.jp)

 

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私達が主の御声を聞くことにおいても成長できますように。

また、ご意見、ご感想、またオーディオクラスに関心のある方などは、 shizuku365@proton.me までご連絡ください。

 

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 愛する者たちよ。

わたしたちは互に愛し合おうではないか。

愛は、神から出たものなのである。

 

すべて愛する者は、神から生れた者であって、神を知っている。
 愛さない者は、神を知らない。

神は愛である。
 

 神はそのひとり子を世につかわし、

彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。

それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。

(第一ヨハネ4:7-9)

 

感謝します

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信仰のテストは

生半可な気持ちでは向き合う事ができないという

覚悟が必要ですね

しかし、愛は恐れを取り除いてくださいます

どうか、その愛をもって私も歩いていくことができますように

お祈りしますハート

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今日は秋田から友人が東京に来てくれるので

祈りの友と久しぶりに会ってきます

恵みの時を感謝します

 

暑くなりそうですが、行く道、帰る道守られますようにお願い

 

 

 

 

 

 

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(2016年9月ももちゃん)

今日もありがとう~ラブラブ