(ひとしずく・②水の洗礼 --パウロとバプテスマ--)~愛によって働く信仰~ | sarah‐mercy

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からの続きです

 

水の洗礼 パウロとバプテスマ パート2

 

 ただ、わたしはこの事は認めます。 

 わたしは、彼らが異端だとしている道にしたがって、わたしたちの先祖の神に仕え、

 律法の教えるところ、また預言者の書に書いてあることを、ことごとく信じ、

  また、正しい者も正しくない者も、

 やがてよみがえるとの希望を、神を仰いでいだいているものです。

 この希望は、彼ら自身も持っているのです。

                      (使徒行伝 24章14-15節)

 

 先回のひとしずくで触れたように、

エッセネ派クムラン共同体の信者が、自分達のことを「道」と言っていたことから

(イエス・キリストが登場する数世紀前から)、熱心なパリサイ派だったパウロは、

クムラン共同体でイエス・キリストを信じる者達を捕縛しようとしていたけれども、

結局三年間エッセネ派クムランに留まって共同体から信任を受けることになったようです。

 

そして彼自身が、パリサイ派や、サドカイ派から圧力を受けていて

「異端」とされていたエッセネ派の言っていることを信じていると

告白しているということになります。

 

 ところで、エッセネ派は、水の洗礼を施すことを慣例としていたのに、

パウロがその規則を継承しなかったことは、注意すべきことです。

 

 わたしは感謝しているが、クリスポとガイオ以外には、あなたがたのうちのだれにも、

 バプテスマを授けたことがない。 

 それはあなたがたがわたしの名によってバプテスマを受けたのだと、

 だれにも言われることのないためである。

  もっとも、ステパナの家の者たちには、バプテスマを授けたことがある。

 しかし、そのほかには、だれにも授けた覚えがない。

 

 いったい、キリストがわたしをつかわされたのは、

 バプテスマを授けるためではなく、福音を宣べ伝えるためであり、

 しかも知恵の言葉を用いずに宣べ伝えるためであった。

 それは、キリストの十字架が

 無力なものになってしまわないためなのである。

                        (第一コリント1章14-17節)

 

 イエス・キリストは、律法の終わりとなられるために、

割礼を含め、すべての律法を成就されました。

そして洗礼も(当時、クムランの信者らが行っていたことに従って)行いました。

 

 そのときイエスは、ガリラヤを出てヨルダン川に現れ、ヨハネのところにきて、

 バプテスマを受けようとされた。

 ところがヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った、

「わたしこそあなたからバプテスマを受けるはずですのに、

 あなたがわたしのところにおいでになるのですか」。

 

 しかし、イエスは答えて言われた、

「今は受けさせてもらいたい。

 このように、すべての正しいことを成就するのは、

 われわれにふさわしいことである」。

 そこでヨハネはイエスの言われるとおりにした。 

 

 イエスはバプテスマを受けるとすぐ、水から上がられた。

 すると、見よ、天が開け、神の御霊がはとのように

 自分の上に下ってくるのを、ごらんになった。 

 また天から声があって言った、

「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。 

                            (マタイ 3章13-17節)

 

 イエス・キリストは、律法と「正しいことを成就するために来た」と言われました。

つまりエッセネ派の行っていたことを肯定しておられました。

しかし、次のバプテスマのヨハネの証言にあるように、

イエス様は、御霊によって信じる者達にバプテスマを授けることになります。

 

 わたしはこの人を知らなかった。

 しかし、水でバプテスマを授けるようにと、わたしをおつかわしになったそのかたが、

 わたしに言われた、

 『ある人の上に、御霊が下ってとどまるのを見たら、

 その人こそは、御霊によってバプテスマを授けるかたである』。

  わたしはそれを見たので、このかたこそ神の子であると、あかしをしたのである」。

                                (ヨハネ1章33-34節)

 

 エッセネ派のリーダーであったであろうバプテスマのヨハネが

「わたしはこの人を知らなかった」と言っているので、

イエス様がクムランの一員だったということはできません。

ジョシュ・ペック氏は、イエスが公の活動を開始された後に、

クムランにも来られて神の言葉を伝えた可能性は大いにあると述べています。

それはクムランの写本にあるメシアが彼らのところに来られるという預言から

そういう解釈もできるということです。

 

 イエスの弟子たちの少なくとも二人は、

バプテスマのヨハネの弟子たちであったこと(ヨハネ1章35節)

またパウロが、クムランの地で三年過ごしたとすると、

エッセネ派の慣例である洗礼を引き継いだ、あるいは引きずって続けた

ということが言えると思います。

 

 では、なぜ、クムランで三年も過ごしたパウロ、

共同体から信任を受けるほどになったパウロが、福音を伝えるようになった際に、

バプテスマを推奨しなかったか、と言う疑問が残りますが、

これは、彼がダマスコに三年とどまっていたと証言しているガラテヤ書自体を読むと、

そして「割礼」などの律法についてパウロが語っている内容を理解すると、

水の洗礼について、パウロがどのような理解を持っていたか、わかると思います。

 

共同体に受け入れてもらうための儀式としても、

また神の前に義とされるためでも、また証のためでも、

パウロの福音伝道には、水のバプテスマは適合しないことがわかります。

かえって、福音による自由、神の恵みから落ちるということにつながります。

 

聖霊が罪を悟らせ、み言葉の真理が真理を示し、

真理に生きる力は聖霊からきます。

そしてその生き方が証なのです。

儀式主義に生きるなら逆戻りとなります。

 

 

 自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったのである。

 だから、堅く立って、二度と奴隷のくびきにつながれてはならない。

  見よ、このパウロがあなたがたに言う。

 

 もし割礼を受けるなら、キリストはあなたがたに用のないものになろう。

  割礼を受けようとするすべての人たち<洗礼についても言えます>に、

 もう一度言っておく。

 そういう人たちは、律法の全部を行う義務がある。

 

  律法によって義とされようとするあなたがたは、キリストから離れてしまっている。

 恵みから落ちている。

  わたしたちは、御霊の助けにより、信仰によって義とされる望みを強くいだいている。

  キリスト・イエスにあっては、割礼があってもなくても、問題ではない。

 尊いのは、愛によって働く信仰だけである。

                      (ガラテヤ5章1-6節)

 

 

 この点についてロバート・ルギンビル博士がわかりやすく解説してくれています。

(興味ある方は英語ですが、翻訳機能をつかって見てみて下さい)  

 『クリスチャンには水のバプテスマが必要ですか?』

https://ichthys.com/mail-water%20baptism.htm#Matthew%2028:19-20

 

<続く>

 

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イエスキリストが律法の終わりとなられたのに

律法主義、儀式主義に戻ることは、キリストの十字架が無になってしまうと

パウロは言っていますね

イエスさまがパウロを、福音を伝えるために使わして下さったと

そして、パウロは

かつては、クリスチャンを迫害していた者でしたが

愛によって働く信仰によって死に至るまで忠実に生きたのです

 

 

キリスト・イエスにあっては、

割礼が(洗礼についても言えます)

あってもなくても、問題ではない。

 尊いのは、愛によって働く信仰だけである。

(ガラテヤ5:6)

 

感謝します

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愛だけが、溺れそうになって沈むときも

手を掴んで引き上げて下さるんだぁ

私がイエス様の手を離しても、イエス様が掴んでいてくださるハート

 

今日もありがとう~ラブラブ