(ひとしずく・「④終わりの時の備え」リトリート2019-5)苦しみにあったことは私に良いことです | sarah‐mercy

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右差しパート③からの続き

~友人からのメール~

 

「終わりの時の備え」(5月5日 午後のクラス1)

 

詩篇119篇71節

「苦しみにあったことは、わたしに良い事です。

これによってわたしはあなたのおきてを学ぶことができました。」

とありますが、

苦しみの時には、神様によりすがり、神の言葉がもっと入ってきますよね。

入ってきますか?

かえって苦しみの時に神様の言葉が入ってこない、と言う方がいらっしゃったら、

もっと必死に祈る必要があるかもしれません。

 

苦しみの時こそ、もっとどんどん神様の言葉が入ってくるようでなければいけないです。

苦しみはそのため、神様にもっと近づけるためにあります。

そして神様が私たちを造りかえてくださるためにあります。

もっともっと主の御言葉にしがみついて、洗ってもらう必要がありますね。

イエス様は、

「あなたがたは、わたしが語った言葉によって既にきよくされている。」(ヨハネ15章3節)

と言われました。

神の真理の言葉によって、私たちは清められるのです。

苦しみにある時、

「主よ、あなたは何をお教えになりたいのですか?

何をお語りになりたいのですか?」と主の御許にひざまづき、尋ねる習慣をつけてください。

 

ユダの王ヒゼキヤが病気になって、イザヤから自分の死が近づいたことを告げ知らされた時、

ヒゼキヤは寿命を延ばしてくださるよう主に必死に祈りました。

そして、その願いが聞き入れられ病気が癒されたのですが、

その時のヒゼキヤの祈りの一部もやはり詩篇119篇の71節と同じようなことが書かれています。

 

 「見よ、わたしが大いなる苦しみにあったのは、わが幸福のためであった。

 あなたはわが命を引きとめて、滅びの穴をまぬかれさせられた。

 これは、あなたがわが罪をことごとく、あなたの後に捨てられたからである。」

                                            (イザヤ38章17節)

 

「わたしが大いなる苦しみにあったのは、わが幸福のためであった」と言っています。

自分の罪のために苦しむのは仕方ないと思えます。

しかし、精一杯やっているのに、不当と思える苦しみが来る。

どうしてこういう状況に置かれたんだろう?と思うことがあります。

他の人の罪を、自分の背に刈り取っているように思える時もあるかもしれません。

でもこういう言葉があります。

第一ペテロ2章19節です。

 

 もしだれかが、不当な苦しみを受けても、神を仰いでその苦痛を耐え忍ぶなら、

 それはよみせられることである。

 悪いことをして打ちたたかれ、それを忍んだとしても、なんの手柄になるのか。

 しかし善を行って苦しみを受け、しかもそれを耐え忍んでいるとすれば、

 これこそ神によみせられることである。

 あなたがたは、実に、そうするようにと召されたのである。

 キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、

 御足の跡を踏み従うようにと、模範を残されたのである。

                                    (第一ペテロ2章19節~21節)

 

どうですか?

私たちは苦しみに遭うように神様は御計画しておられますね。

目的を果たすためには苦難を通過しなければならないこと、

そしてそれをどのように耐え忍んで進んで行くのか、

それを神様はイエス・キリストを通して模範を示されました。

苦しみは避けて通れないです。

「善を行って苦しみを受け、しかもそれを耐え忍んでいるとすれば、

これこそ神によみせられることである。」とあります。

「あなたがたは、実に、そうするようにと召されたのである」と。

苦しみを通過することこそ、私の計画なのだよ、と言っておられるのです。

次は第一ペテロ4章13節から19節を読みましょう。

 

 むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど、喜ぶがよい。

 それは、キリストの栄光が現れる際に、よろこびにあふれるためである。

 キリストの名のためにそしられるなら、あなたがたはさいわいである。

 

 その時には、栄光の霊、神の霊が、あなたがたに宿るからである。

 あなたがたのうち、だれも、人殺し、盗人、悪を行う者、

 あるいは、他人に干渉する者として苦しみに会うことのないようにしなさい。

 

 しかし、クリスチャンとして苦しみを受けるのであれば、恥じることはない。

 かえって、この名によって神をあがめなさい。

 

 さばきが神の家から始められる時がきた。

 それが、わたしたちからまず始められるとしたら、

 神の福音に従わない人々の行く末は、どんなであろうか。

 

 また義人でさえ、かろうじて救われるのだとすれば、不信なる者や罪人は、どうなるであろうか。

 だから、神の御旨に従って苦しみを受ける人々は、善をおこない、

 そして、真実であられる創造者に、自分のたましいをゆだねるがよい。

                                          (第一ペテロ4章13節~19節)

 

 

ところで苦難と言えば、私は母のことを思い出します。

私の母は、まだクリスチャンとははっきり言いませんが、

最近はお葬式はキリスト教式でも構わないかな、と言うところまで来ています。

皆さんの祈りのお陰で変わってきています。

田舎の地域は昔から、お寺との強い繋がりがある中で、

そういうことを口にするというのは本当に大きなことです。

 

母は今になって少しは証を受けていますが、私が小さかった時はその地域には、

教会もなければ、キリスト教のキの字もありませんでしたから、

当然ながら母はクリスチャンではありませんでした。

でも、神の御旨に沿って、子どもの養育のために苦しみを受けて生きていたと思います。

母親が子どもを守るために苦しみを受けることは、神の御旨に適っていますよね。

母はそうして、私たち三人の息子を守り育ててくれました。

 

昔の人は大変ですよね。

自分の旦那さんがどんな人かわからない、顔も見ないで嫁いで来るんですよ。

考えられない事です。

そして何も相手の事を知らないで結婚し、蓋を開けて見てびっくり!

毎晩のようにお酒を飲んで暴れる夫だったのです。父の暴力は大変でした。

私も子どもの頃の昔の写真アルバムを見ても、一枚も笑っている写真がないんです。

どの写真も皆、泣きべそをかいているような顔をしています。

 

小学校に行っている時は、父親が酒を飲んで暴力を振るうので、家に帰りたくありませんでした。

母が今になって教えてくれたことですが、私が小さかった頃、

死のうと思ってロープを持って山に行ったことがあったそうです。

もう耐えられないと。

でも、お前たちのことを考えたら死ねなくて山を降りてきたと話してくれました。

その時代は非常に閉鎖的でしたから、離婚したら、もう女性の行く先はありませんでした。

母はそのような過酷な状況の中で、子どもを育てることを決意してくれたのです。

 

ある時は父親が一晩で給料の全部をお酒に使い果たして帰ってきたこともありました。

母は私たちのために、学費を何とかしないといけないので、

土方の仕事をして家計をやりくりしていました。

しかし、そのお金さえ、父に使われてしまったそうです。

非常に大変な苦しみを通過したと思います。

その母のおかげで、今私はあります。

神を知らずに神の御心に生きてくれた母に、本当に感謝しなければいけないと思っています。

 

ちなみに今母は、村中で一番の幸せ者だと皆から言われています。

私たち子どものために、ひたすら苦難を耐え忍んでくれた母を主が祝福してくださっています。

その母の苦難を見て来て、また私自身も辛い子ども時代を過ごしたお陰で、

若い時期に人生の意味を見出そうと必死になり、イエス・キリストに出会うことができました。

そして今母は、私たちの証を受けて救いの祈りをし、

葬儀はキリスト教式でもいいかな・・・と考えるまでになったのです。

苦難の先にある祝福というものを、母の人生を通しても学ばせてもらっています。

感謝します。

 

話を元に戻しますが、苦しみの中で神の御心を行い続けるということを、

イエス様は自ら模範を示されました。

私たちもその御足の後に踏み従うようにと主は模範を示されたのです。

主は神であられたにもかかわらず、苦しみを通して任務を全うしてくださいました。

 

そうであるなら私たちも、クリスチャンになっても苦しみばかりだと不平を言っていられないですよね。

何か人殺し、盗み、人に干渉して悪いことをしているわけではないのに、

何で私に苦しみがあるのか。主の御心を行おうとしているのに苦しみが絶えない。

 

しかし、御心を行って苦しんでいるのなら、それこそ神様が御計画しておられることです。

クリスチャンとして、御言葉を学ぼうとしているのに、苦しみを受ける、

クリスチャンとして生きようとしているのに反対に遭う。

このようにクリスチャンとして苦しみを受けるなら、

それこそ神によみせられる(喜ばれる)ことだということです。

キリストも苦しみを通して任務を全うしてくださいました。

 

 この悪魔にむかい、信仰にかたく立って、抵抗しなさい。

 あなたがたのよく知っているとおり、全世界にいるあなたがたの兄弟たちも、

 同じような苦しみの数々に会っているのである。

 あなたがたをキリストにある永遠の栄光に招き入れて下さったあふるる恵みの神は、

 しばらくの苦しみの後、あなたがたをいやし、強め、力づけ、

 不動のものとして下さるであろう。

                       (第一ペテロ5章9、10節)

 

 

 「しばらくの苦しみの後、あなたがたをいやし、強め、力づけ、不動のものとして下さる」 

こういう風にして、私たちを新しく造りかえてくださることが苦しみのゴールです。

主は目的があって私たちに苦難を通過させます。

虚しくただ、いたずらにそういったことを通過させているわけではないということです。

 

このことを覚えつつ、苦難の中で堅く主とつながって主の御心に生きられるように、

互いに励まし合い、祈り合って行きましょう。

 

―以上「終わりの時の備え」のクラスより

 

 

右差し「今遭遇している試練」に続く

 

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「ひとしずく」の友人のお母さまの話を伺いながら

思わず涙が出そうになりました

私の苦しみなんて、苦しみともいえない

それなのに、日常のほんの小さなことでさえ、腹が立ったり、不平不満を胸に抱え込んだり

小さなテストを通過するのも、やっとこな感じです

 

恵まれすぎてその恵みの大きさに気付かずに、つい不平を言ってしまうことを

どうぞ許してください

心に思ったこと、口に出したこと、愛のない心で知らずに傷つけてしまったこと

たくさんの罪をゆるしてください

 

イエス様、あなたがどれだけの苦しみを私の為に通ってきてくださったか

その事を考えるなら、どんな小さな不平も言えるはずがないのに

本当にごめんなさい

もっと謙遜になって、あなたの愛を学べる者としてください

 

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三日月昨夜は一人ウォーキングをしました

曇り空だったのに、一瞬雲間が切れて久しぶりに美しいお月様が顔を出してくれました

同じ道を歩いても、真っ暗な空と、月や星が見える空の下を歩くのは違います

 

心にイエス様がいるのは、光が見える道を歩くようなものなんだなぁ・・・

と、思いました

 

 あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。

                                     (詩篇119:105)

 

 

感謝します

*:..。o○☆゚・:,。*:..。o○

 

                   今朝も曇り空で、ちょっと寒いにゃネコ

 

 

 

 

 

と、思っていたのに・・・

 

桔梗、昨日の朝は蕾だったのが、午後に久しぶりの太陽の日差しが差してきて・・・

 

 

 

 

 

あ、開き始めてる・・・・

 

 

 

 

            もう一息

                     

 

 

 

 

わ~い、久しぶりの青空だぁ~アップ

今日もありがとう~ラブラブ


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「僕らの里 荒瀬へようこそ」左差し(友人の息子さん、Y君(23歳)のブログです)

 

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