どこでもないどこか。 -2ページ目

どこでもないどこか。

読まれないことを前提とした、なんとなく日記。

「銀河鉄道999 THE MUSICAL」




基本的に2.5次元にはそれほど食指は動かないが、

こと「銀河鉄道999」と言われると話は別。

柔い脇腹を攻められては降参するしかない。



今まで舞台化された2回は観ていない。

鉄郎役の中川晃教は完璧だと思うが、

どうしてもメーテルがピンと来なかった。

歌唱力や表現力に不満がある訳ではない。

若過ぎるのだ。

実年齢を根拠にするのは不当だと承知している。

ここまでの演者が演技力でカバーしていたのならば、

平身低頭お詫び申し上げるしかない。

しかしながらあの母性と包容力は、

残念ながら若さとの相性があまりよろしくない。

脚本や役者の技術でカバーできたとしても、

若く張りのある声ではおのずと限界が生まれてしまう。

これは池田昌子のイメージが強すぎるせいかもしれない。



今回の舞台を観に行ったのは3度目の正直というのもあるが、

メーテル役が花總まりになったことが大きい。

神田沙也加は彼女が出るなら観ようと思えるくらい好きだが、

メーテルと言われるとやはりピンと来なかった。

だが花總まりならば見た目のイメージもメーテルに近いし、

年齢も経歴も失礼ながら若手の範疇を超えている。

じゃあ観よう、となった次第である。



この舞台は劇場版アニメ「銀河鉄道999」をベースにしている。

鉄郎が地球でメーテルと出会い、999に乗って共に旅をし、

機械伯爵を倒し、最後には惑星メーテルを破壊する。

機械伯爵のエピソードにオリジナル要素を加えてあるが、

この大筋は変わらない。

当然ストーリーは鉄郎を中心に進むのだが、

しかし決定的に違うことがある。

それはメーテルが主人公ということだ。



数多くの若者を機械化母星の部品に変えた過去をもち、

現在もまた鉄郎をそのようにしようとしているメーテルは

そのことで自分を責め、自分を許せぬ孤独の中にいる。

エメラルダスからの「自分のことを愛せてる?」の問いは

深くメーテルの心をえぐった筈だ。

自分を愛せない、自分には愛される資格がないと感じ、

それ故に自分を愛してくれるのは母親だけ、

という共依存状態に陥っている様子も描かれる。

最後には鉄郎の力を借りて過去を背負う覚悟をし、

母と決別する流れであり、十分な厚みがある。



また劇場版アニメではメーテルの父親が声だけで登場し、

メーテルと結託して機械化母星を破壊するために

若者を集めているという設定になっているが、

本作ではその部分は父親ごとごっそりなくなっている。

これにより母親からの支配、共依存という面がより顕著になり、

メーテルの心情の変化は一層際立つ結果となっている。

意図的にメーテルの物語にしようとしているとしか思えない。

機械伯爵のオリジナルエピソードも、

若き日の機械伯爵とメーテルの関係に触れることで

メーテルの宿業を表現するのに一役買っている。



先にも書いた通り、花總まりという役者はメーテルを演じるのに

十分な容姿、年齢、表現力だと思っている。

違和感があるとすれば、そのあどけない少女っぽさ。

これは彼女の強力な武器であるのだが、

メーテルには邪魔になるものだと思っていた。

母というよりは姉のような雰囲気に違和感を覚えた。

しかししばらく観ているとこれはこれでアリか、と思えた。

この辺りはもう役者の実力と言っていい。

役の方が演者に寄ってくる。



少女性という新しい一面を加えたメーテル。

これを認めると、今までの若すぎるメーテルも

一気にナシではなくなる。

他のメーテルも観たくなってくるのが悔しい。



【余談】

テレビシリーズの名エピソードが生まれた星を

名前だけとは言え登場させるのもニクイ演出だ。



また物語の中で何度も鉄郎の父親の話が出てきた。

鉄郎の父親は劇場版2作目の「さよなら銀河鉄道999」に登場する。

そっちも舞台化する気満々ではないか。

観ます。



それにしても、お歌の達者な人が多くて耳に心地の良い舞台だった。