友人が劇団を立ち上げて以来、
日々せわしなくその活動に汗を流している。
何かを表現し、それを外の世界に発信する行為は、
本人に内側由来の直接的な感動を呼ぶと予想している。
達成感や共有感など、可能性は想像できるが、
想像しきるのは難しい。
一方、それを観る側の中に起こるのは、
外側から刺激されて生まれる間接的な感動だと言える。
心の琴線と呼ばれる何かに触れる作品であれば、
共鳴作用によって奥深くからの振動を感じ取ることが
あわよくば出来るかも知れない。
これは作品の完成度以外にも、
観る側の経験や性質などに影響されるため、
一概には語れない。
自分は映画や本、お芝居を観て、簡単に泣ける。
こんなことで?と思ってしまうようなシーンで、
うるるっ、じわわっ、ぶわわっ、である。
最初から準備された感動シーンであれば、
えぐえぐひっくひっくしてしまう。
「キタキツネ物語」を観ている時に
バスタオルを母親から渡されたのは恥ずかしい思い出だ。
その一方で、卒業式や友人との死別、失恋、その他、
現実的なことや自分に関係することで泣いたことがない。
正直なところ、親が死んで泣けるかどうかも分からない。
父親が死んでも恐らく泣かないだろう。
母親が死んだら、ひょっとしたら泣くかも知れない。
その程度だ。
これが逆なら納得がいくのだが、実際はそうじゃない。
リアルよりもメディアを通したものの方がグッと来る。
なんでそんなことになるのかと考えてみた。
確定的な結論には辿り着けていないが、
ひょっとしたら自分にとっては
直接体験の世界も間接体験の世界も、
精神的には大差ないのかも知れない。
フィクションでもリアルに感じ取れる感性!
なんて書くとカッコイイが、寧ろ逆だ。
現実世界にリアリティを感じられていない可能性。
同じレベルでの認識なのだとしたら、
泣けるように演出されているものの方が泣きやすいのは道理だ。
現実世界ではBGMもないし、
タイミングや言葉を選びぬいた台詞が入る訳でもない。
監督や脚本家がいない映画のようなものだ。
幸運な偶然でもない限り、泣くに泣けない。
なぜ現実世界と空想世界に差を感じられないのか。
もちろん、違うのは分かっている。
空想世界には現実的な制限は少ないから、
世界としてはまるっきり違う筈なのに、
印象が大差ない。
これは、今後も時折考えていこうと思う。