堪らずに 何か尋ねたくなったとして、
「あなた」を私に訊くことに 意味などないのです。
しかし どうでもいいことを思いついた時には、
やはり一刻も早く 私は「あなた」を聴きたいのです。
その絵の前で 何をみたのでしょう。
あなたの その どれも いずれも、
私にとって 取るに足らないのです。
どうでもいいことについて考え込むのなら、
とことんと付き合いたいのです。
お気に入りの イタリアンレストラン。
赤でも 白でも ワインを飲みましょう。
それがどんな葡萄なのか 知りもしないで。
それは ずっと 知らぬままでいいのです。
よりも あなたが 靴擦れしていることを、
私は知っていたかったのです。
あの鉄道に 振られ 揺られて、
しみじみとしないことが あるでしょうか。
液晶の モワモワ光る 表面の少し先に、
何があるというのでしょう。
何も もたず みず きかず、
流れ過ぎ行き 運ばれてゆけば いいというのに。
人生とは あの桜のように
なんて 儚いものでしょう、と。
すれば もう 絶交になるかもしれません。
私が みていて ほしいこと。
「去年の桜をいつも覚えていないのです」
とある日の、帰り道。
「恋人である彼女について、私は何か綴ったことがあったろうか?」
不意にそういう問いが舞い降りて来たわけである。
確かにその日は彼女とお気に入りのイタリアンを食べながら、初めにシャンパンを、それから赤ワインをグラスで三杯飲んだ。
何の此れしき。別段酔っぱらっているわけでもなかったのだが、如何せん私は彼女と酒を飲むと三割増しでふわふわし出す、という特性を兼ね備えている。
普段からふわふわした思想や現実に着地しない言葉を、そこかしこにばら撒く持病を抱えているというのに、そこから三割り増すとなるとこれはひどい有様なわけだ。
つまり「別段酔っていない」というくらいには酔っぱらっていたために、どこからともなくそんな問いがやってきた。
いや正確には、終着駅へ向かう最終電車の静けさと、がらんとした車内を自由に転がるあのガタンゴトンの心地良さが、私の脳内に作用したわけである。
向かう先もわからぬまま、私は左ポケットからスマホを取り出して、その液晶画面に言葉を投げつけていった。
ちょうど足元の石を拾い上げて、静かな湖面に放り込むように。
湖面には水紋が広がる。
その模様を手掛かりにして、また次の石を拾って放り投げる。
大きい石や小さい石が、ちょっとずつ違ったカタチを描く。
私はそれを掬い上げていった。
しかし知らぬ間に、掬い上げているのか、描いているのか、拾っているのか、放り投げているのか、放り込んでいるのか、投げつけているのか、眺めているのか、何を想っているのか、解らなくなってきて、それらの模様に誘惑されているのではないかと思い始めた。
次への言葉はもう私が選んでいるのではないような気がしてきたのである。
私は自分が石ころに代わって、湖の底へ沈んでいっているのに気が付いて顔を上げた。
同時に車内アナウンスが流れ始め、終点への到着を告げている。
スマートフォンはモワモワと光っている。その表面には小さな詩が映っていた。
この詩に映る言葉たちは最早「彼女について何か綴った」ものではない。むしろ私の中の幻想的な「彼女」との日常があるだけだ。
しかし実際にそういった側面が私と彼女との関係にはあるわけだ。恋人関係といういわゆる「付き合っている」状態の人間が二人で時間を過ごすということには、何か幻想的な互いのパラレルな空間で作られた世界が存在しているように思うのである。
もしそれを可視化して見られるのであれば、「付き合っている」二人というのは実は全くの別世界を生きているということがありありとわかることだろう。
敢えていうなら「結婚した二人」には幻想など全く必要なく、ただひたすらに動かされる現実だけが眼前に立ちはだかってくるのである。それは解りきったことである。
幻想化された「付き合っている二人」のままいられることは実に幸せなことなのである。
と、私は思っていたのだ。
おわり