いつもお読みいただきありがとうございます。
ほったんです。
今日は購読している致知メルマガからの抜粋です。
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戦争で亡くなった人たちのおかげで
今の時代があることに感謝します。
ありがとうございます。
ですから、
生きたくても、生きれなかった人たちの分まで、
生きなくてはいけないんでしょう。
まだ、
そこまでの決意と覚悟ができていない自分がいます。
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以下メルマガから
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■『致知』で出逢ったいい話
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<その19> 特攻隊の真実
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戦争という逃れ得ぬ境涯の中で、国を思い、
愛する人を思い、散っていった若者たち。
同じ時代に生きた者の務めとして、
その純粋な思いを書きつづってきた
作家・神坂次郎さんの対談記事を抜粋してご紹介します。
2006年8月号 特集「悲しみの底に光るもの」より
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第七十二振武隊員の千田孝正伍長のことは、
お芝居でも書いて随分感動を呼びました。
第七十二振武隊というのは、
昭和20年5月27日に、万世飛行場から出撃した部隊なんですが、
自分たちから“特攻ほがらか部隊”
と名づけたくらいに陽気で愉快な連中の集まりでした。
出撃前に1週間ほど滞在していた横田村(現・東背振村)では、
夜になると地元の人々が慰問に訪れていたのですが、
隊員たちの元気な余興に、
逆に村の人々が元気づけられるほどだったそうです。
中でも人気者の千田伍長が、
ひょうきんな身振り手振りで踊る特攻唄は、
村の人々を爆笑させました。
ところが、出撃前日の夕方、
竹林の中であの陽気な千田伍長が、
「お母さん、お母さん」
と泣きながら日本刀を振り回していたのを、
通りかかった女子青年団員の
松元ヒミ子さんが見ているんですね。
そういう話になると、もう、
涙が溢れてきて、私などは何もしゃべれなくなる……。
なかなかいまの人には
理解していただけないとは思いますが、
いかに私たちの青春というのが
凄まじいものであったかということです。
松元ヒミ子さんはおっしゃっています。
「日本を救うため、祖国のために、
いま本気で戦っているのは
大臣でも政治家でも将軍でも学者でもなか。
体当り精神を持ったひたむきな若者や一途な少年たちだけだと、
あのころ、私たち特攻係りの女子団員は
みな心の中でそう思うておりました。
ですから、拝むような気持ちで特攻を見送ったものです。
特攻機のプロペラから吹きつける土ほこりは、
私たちの頬に流れる涙にこびりついて離れませんでした。
38年(談話当時)たったいまも、
その時の土ほこりのように心の裡にこびりついているのは、
朗らかで歌の上手な19歳の少年航空兵出の人が、
出撃の前の日の夕がた
『お母さん、お母さん』
と薄ぐらい竹林のなかで、
泣きながら日本刀を振りまわしていた姿です。
──立派でした。あンひとたちは……」
ただ私は、決して戦争を肯定したり、
特攻を美化したりするつもりはありません。
特攻は戦術ではなく、指揮官の無能、堕落を示す
“統率の外道”です。
私は、その特攻に倒れた若者たちが見せてくれた、
人間の尊厳、生きる誇りを語り伝えていきたいのです。
自分の命を白熱化させ、
完全燃焼させて飛び立っていった特攻の若者たちは、
生きていた歳月はわずかでも、その人生には
いまのような生ぬるい価値観を
拒絶したような厳しさがありました。
その厳しさの中で自分の人生、
命の尊厳を見事に結晶させていったのです。
日本人としての誇りを持って飛んでいって
ついに還ることのなかった彼らのことを語り続けることで、
愛する日本の未来に新たな光がもたらされることを願っています。
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最後までお読みいただきありがとうございます。