その1に書いたように、

 

ミスコン好きの私が、

40年前に見た女性たちと今年のファイナリストを比べると

少し物足りない、と感じるには一つ理由があるように感じました。

 

それは、

フェミニストたちのミスコン反対の意を尊重する女性が増えたこと

による弊害、とあえて強く言わせていただきます、

ミスコン好きだからw。

 

冗談は置いておいて、

 

ミスコンを運営するにあたって、

候補者は審査に通るために日々研鑽を積みます。

 

その努力と労力は、人が見ないところでひっそりと行われ、

舞台で花開くこととなるわけです。

 

その努力こそ、女性の味方フェミニスト方が

讃えフォローするべきことだと思うのです。

 

例えば、

 

ミスユニバースの選考などは、

その審査に長く日々を費やします。

 

その中で、候補者がどのように

各国の女性たちとしのぎを削るか

そのために何を利用し、何を発揮するかが問われます。

 

そこには、その国の発想や主義、個人のモットーによって

彼女たちの行動が異なる姿が浮かび上がります。

 

野心を持てば、ライバルに何をしてもいい、と思う人や、

誰にでも好感よく振る舞う人、中心に立ちグループをまとめる人

など、それぞれの才覚や魅力の中から、一番を決める一面もあります。

 

しかし、日本で騒がれるフェミニストのミスコン反対理由は、

美醜で人を判断しないこと、という一択にしか聞こえません。

 

審査員も暇ではないですし、好みやコネだけで選抜すれば

すぐに世論に叩かれることも熟知しています。

 

であってもなお、このミスコン反対の争点は

女性を見た目の性で判断するなと訴えているのです。

 

ミスコンは、そうではない、女性の魅力、

磨けば誰でも可能性を秘めているということにも

中止しているコンクールだと私は思っています。

 

しかし、フェミニストの美醜批判にこだわるだけの

反対運動によって、

 

ミスコンに出場する女性はバカだ、

容姿だけで勝負するなんて女性の冒涜だ、

 

という声を受け、本質を見失い、

真の逸材を取り逃がしているように思えてなりません。

 

ミスコン対象年齢の女性も、これにより、

外面、内面共に美しいことを目指せる時代に、

 

過度に目立ってしまっては反感を買う、

 

といろんな面においてもチャレンジに歯止めがかかることでしょう。

 

そうなると人は一気に覇気を失うものです。

 

日本女性は美しい、しかし、慎ましいため

人の視線に負け自立の苦労や自己実現を諦めてしまいかねません。

 

結果、その環境から多様に教育や経験の中で育ち、

時にはいじめや差別を受けそれに打ち勝った

帰化日本人やハーフの女性の方が魅力的と判断され選ばれるのです。

 

また、岩石を宝石に変えるトレーナーの存在も

これにより悲観の対象とされるなら、

尚更女性は魅力というものの基盤を失うでしょう。

 

日本特有のお茶や花道、着付け、裁縫、歌詠みなど

現在私たちはそれらから女性の可能性を見出すことはありません。

 

それは時代にそぐわない、ということは承知していますが、

では、女性らしい姿、しかも、日本特有、しかも、

世界に共通する魅力や知性をどのように養ったら良いのでしょうか。

 

あれはダメ、これもダメ、というものは縛りを厳守するもので、

可能性は糊代を広げる術にはなりません。

 

あれもやってみな、これもいいぞと消しかけることで

世間を広く見る機会が生まれるのです。

 

男性の真似をしても、女性は高みに上がれません。

 

女性には女性の武器があり、

男性を抜くほどの女性の特性ややり方があります。

 

それを引き出すことが

真のフェミニズム研究だと思うのです。

 

おわり。