ずぅぅぅぅっと前のことになりますが、
教育実習の際、費やした二週間が本当に苦痛でした。
母校の中学校に行きましたが、
教わったほとんどの先生がおらず、
私たちも不手際だったり礼儀に欠いていたこともあって
だいぶ悪評価だったと思います。
この学校、お世辞にも教師たちの素行が良くなく、
いろんな場面を垣間見ました。
その割に私たちに清い倫理観などを押し付けるのでした。
この時に、中学時代に受けたいじめのフラッシュバックを経験し、
改めて心理学を学ぼうと考えました。
当時は演奏者志望で教師になるつもりはなかったので児童心理学ではなく、
大人が持つ攻撃性の原因や集団ならでは起こる
ヒステリックな行動などの謎について独学で学びました。
心理学者、教育学者の著書、講演などで話を聞きました。
そうこうしているうちに、
大人が行う負の行動心理は、個別に行われた子供の頃の育児や倫理教育の影響、
そしてそれらと社会一般との齟齬が生まれるような現実経験による混乱や葛藤、
怒りによって作り出されるのだ、と言うことを学びました。
それからは、児童心理学も念頭において学び、人と付き合ったり、
その後臨時採用、非常勤教師として赴く上で実践に活かしました。
何より私の心理学の教科書だったのは私が接してきた生徒や子供達、
そしてその親御さんがたでした。
子供は親の背中を見て育つ、
と言いますが、まさにそれはその通りだと感じます。
しかし、それだけが決してその子の将来や人生を決めるわけではない、
と言うことも同時に感じます。
どちらかというと、幼少時にベースとして教え込まれたごく小規模地域環境での
矛盾した常識(しきたりも含め)で受けた傷心(人はこれをトラウマと言いたがる)を
乗り切ることこそが人生の宿題であると今は思っています。
「人は生まれてきた時点で人生を通じてこなすべき宿題を与えられる。
その課題テーマは亡くなるその時まで明かされない。
人はテーマを追いながら宿題をクリアするべく精進し働いて生きていく。」
以前どこかで読んだ言葉です。
私が何をやっても不器用でうまくいかない、どこに所属してもビリのままな時に
出会ったものです。
よく人はなんでも器用でよくできる人を「人生何回目?」などと言いますが、
輪廻転生、そうやって繰り返し宿題をこなすために生まれ変わる、
という考え方に私はとても安堵しました。
それは私の経験上起きた色々な出来事、自分で引き起こした失敗などを乗り越える上で
役立ちました。
私は人生一回目なんだ、と思いホッとしたのです。
同時に、「過去の自分を認め、捨て切ること。そして前を進む」
あるときに決めました。
自分を含めて人はいつかは命が絶えるわけですが、
起きるさまざまな出来事は宿題をこなすための一時通過点。
それらが人生を決定づけることではなく、
乗り越えるためのきっかけなのだ、と。
人生のリミットの中で過去は思い出である。
起きたことにクヨクヨしたり、
出来事や特性から自分を擁護し甘やかしたりすれば
先に進めない、そんなの勿体無いと個人的には感じます。
子供は親を選べない、と言いますが、親も生まれてくる子供を選べません。
しかし、親はその権力や責任で子供が自立するまでは
育てる名目でコントロールできる立場ではあります。
子供はその中で不満や考えの違いを感じます。
親とは人生の宿題のテーマが違うからです。
親個人が抱えている苦労を顧みず
反抗をし、自立して親から離れようとする時期もあります。
でも、これをひっくるめて「奇跡的な出会い」と思えば、
決してこの組み合わせは悪いことばかりではありません。
人生の宿題をこなす。
全ての出来事、出会う人々はこれに必要な教材であると思います。
逆に言えば、そうでも思わなければ生きていけない時期が私個人にはありました。
私は、あとせいぜい20年ほどとおもっている寿命の中で、
半分はなんだかごちゃごちゃな日々だったことを振り返ると、
残りはどのように過ごそうか、と思うことがあります。
というよりも、「どんな人になりたくないか」という消去法。
これ以上体が痛くならない、よく考え学び続けてボケない体をキープしたい、
人の人生を羨ましがったり、運命を憂いたりせず、
欲は振り捨て、あるがままにシンプルに考え生きる。
家族を見送り、その中で思うことです。
全てからっぽ、残される人の時間や労力を課さない終結が
私の理想の人生です。
こう思えるようになったことも、
混沌とした時期に心理学を学んだおかげだと思います。
人のため、ではなく自分のために。