前回はタイトルとは反して自分の経験だけを書いて終わってしまいましたw。

このブログは、思ったことをまんま文字にしているので、どうしても長くなりくどくなってます、すみません。

なのに、いつも読んでくださる皆さんには感謝しかありません。ありがとうございます。

 

さて、学校や保育園、という親御さんが自分のお子さんから目が離れる時間に起こることをどう的確に知るかは、親御さん方のお子さんとの接し方、学校や地域との関係による、と考えます。

 

親御さんがお子さんとよく語る家庭では、何か精神的不調が起きればお子さんがそのサインを出してくるし、それを疑わず察することができますし、その真偽を客観的に確かめるために周囲の協力や情報収集への風通りの良さを確保することは重要です。

 

この様々な関係性において上下関係ができる環境で起きるのが、いじめや虐待です。

 

大人同士の対面でマウンティングや公正な討論が行えない場所では必ず、そこに巻き込まれる第3者がいるものです。教育ではそれが子供です。

 

私は元教育者という立場、そして現教育者である相棒とよくする話は、

 

子供は本当にわかりやすい。

 

ということです。そして、

 

それを大概の親はあまりわかっていない。

 

ということも話します。子供を持ったことのない夫婦が語るな、と言われるテーマですw。

 

子供の単純さは明確で、不愉快だと不満を言い、意見が通じないと暴れ、不公平が大嫌いです。

 

つまり、健全であればとても自然に感情と行動が一致するのです。

 

しかし、大人はして欲しくないタイミングで子供が暴れて訴え泣くのを嫌がります。それは誰だって嫌ですw。

 

なので、

 

大抵、現状の行動を収めるために子供と「代替えの交渉」を行います。

 

1。大人しくすれば好きなものをあげると言う

2。とにかく無体な行動に徹底無視をする

3。周囲を見てみな、誰も泣いてないで恥ずかしいよ、と言う

 

など。

 

代替えの交渉についてくるのはあくまでも「代替え」しかありません。子供がとにかく今の理不尽な感情を忘れるために頓服を飲ませるようなものです。

 

これは一時期子供は諦めて大人に従うかもしれませんが、心情としては解決がついてない問題が残るので本人がスッキリしていません。

 

これは親御さんも同じだと思います。起きたことやしたことに納得がいかずモヤモヤしたりします。

 

かといって、

 

静かなところへ行き、冷静に道理を説いて子供が落ち着くまで付き合う

 

と言う模範解答も、度重ねればそうそう説得材料も尽きるし子供に効くかと言うとそうでもない、と言うものです。

 

これは、哲学の問答のようなものでガッチリとした正解はないのかもしれません。

 

私たち夫婦がもし親の立場なら、とにかく状況において臨機応変に方法をミックスします。そこで、子供がいろんな心の収め方を自分で探り当てるようになるのではないか、と思うのです。

 

時には無責任に飴を与え、時には一緒に暴れてみたり、白けた表情で無視をしてみたり。お風呂に入りながら、あれはちょっといただけなかったねー、なんて独り言を言えば子供はあのことだな、となんとなく察するのです。

 

昨日は飴くれたじゃん!と子供が喚いたら、だって今日は飴ないんだもんしょうがないじゃん!と返す。

 

これを繰り返していくうちに自分で考え理性を備えていきます。そうなる年齢まで親が面倒を見て、社会生活に対応できる精神を身につける年代になり幼稚園、保育園と上がるのがプロセスです。

 

対面の目線を学校や幼稚園で友達と交わす会話と同じところまで落とす、意外と子供が腑に落ちるツボだったりします。いいんです、泣き止まなかったら泣かせとけば。それは彼らの感情がそうさせるのですから。

 

これによって、子供も大人という存在に完全を求めなくなります。そうして大人になってゆくのです。

 

つまり、子供というのは快い解答をいつも用意してくれているだろう大人に過大な期待を持っているのです。

毎回子供が欲する対応をしてしまうと、心のよりどころを過度に親や教師に向けるようになります。

 

親や教師にとっても日々の忙しさから、それらに全部対処できるわけがありません。そして、期待する答えを求められない大人を振り切って、甘えられる大人や環境へ子供は向かうのです。

 

子供は、親に甘えられないと分かれば、教師に甘えます。甘えを受け止められる時は甘えさせていいと思いますが、無理な時もあります。それはきちんと理由を話せばいいのです。

 

そこで無理をして受け止めることが愛ではありません。

 

個人の、好かれる大人になりたい、という欲が、無理で無責任な過保護を生むのです。

教育現場での虐待というものは、この末路です。

 

受け止められないことが蓄積して、ストレスとなり、本来子供の幸せのためだった教育が、しつけなんだと自分に言い聞かせながら、個人攻撃、いじめや虐待に変化する。

 

理性や常識を失い、子供をこっそりつねってみたり、聞き分けのない子を暗い部屋に押し込めたりする。

 

これ、一時的になんとなくスッキリするんです。支えが取れたような。

 

子供同士でもこういうことは起きます。それもストレスや鬱憤を晴らすためにします。

 

でもそれは絶対あってはならないことです。

 

それならむしろ、情などは無視し常識ルールに沿って教育した方が余程子供のためでしょう。

 

でもそれは嫌ですよね。子供はロボットじゃないですから。

 

子供が大人のストレスのターゲットにならないためにも、大人が精神的逼迫を解く必要があります。

 

その一つは、子供と一緒に歩む。

 

子供のために大人だけがあくせくする必要はないし、時にはチートデーがあってもいいし、人に頼ってもいい。子供と一緒にゴロゴロしたり気が紛らす。時々、深刻にならず子供に軽ーく愚痴ってもいいんです。そのちっぽけなガス抜きを、頼られてると感じ子供が自信を持つこともあります。

 

そして教育現場では、無駄な仕事が多すぎます。運営全てを教師に押し付けるのは無理です。そのために夏休み、冬休みがある、とはいうものの、学校側のスケジュールが不安定だと計画も立ちません。それなのに、毎日の連絡帳だの、時間外の親とのラインのやり取りだのまで強いるなどもってのほかです。

 

最近、親の保育までしてるの?という現場が多い気もします。そういうストレスや理性、常識の崩壊が思わぬ子供との事故に結びついているのかもしれません。