今住んでいる街には音楽学校があって、引っ越した直後から学校全体のコンサートや学校が主催しているチェロのスペイン全国コンクールが開かれたので行きました。

 

全体の発表会のコンサートでは、圧倒的に女子生徒が多い。相棒の友人の子供たちも別の地域の音楽学校に通っていて、やはり男の子は13歳も過ぎればアウトドアに興味が移り、コツコツ部屋で練習する音楽を続けることがないらしいです。

 

ところが、こちらの国営放送のオーケストラの分布としては、日本と同様男性が多い構成でできてます。

 

 

 

世界の有名オーケストラでクォーター制を取り入れた、という話は全く聞いたことがありません。なぜなら、

芸術の世界において、人材の選別を「能力重要視」と人々が容認しているからです。

 

そこに男女の隔たりを感じさせるハンデはない、という名目で能力が優れており、仕事としてポジションを守れる存在であれば、ジェンダーは問わない世界です。

 

それでもプロのオーケストラで男性が多いのは、それだけ年間数百のリハーサルとコンサートに耐えうる存在を求める上で組織が同等の能力なら定年まで止まらずに働ける男性を選ぶからです。これは先天的能力と同じレベルぐらい必須な条件だからです。

 

これについて、女性の分布が多い音楽学校で学ぶ女性たちの中でジェンダー差別を訴える人は私が知る上では皆無だと思います。

無能では続かない過酷な職であるということを知っているゆえ、事情を納得をしているのです。

 

さて、

 

今回の森喜朗氏の辞任において日本のいろんな番組でコメンテーターの意見を聞きましたが、そのどれにおいても森氏のこれまでの功労について知る人は一人もいませんでした。

 

特に、発言について強い拒絶を感じる意見を述べる人は、当の発言の原文すらしっかり検討はしていないな、と思いました。なので、前回のブログで頭にきたのです。嘘の報道に乗っかって調べもしないで人を糾弾するなんて、と。

 

このように、一例を挙げて政治家を始め識者や差別撤廃を訴えるグループのメンバーは女性差別を訴えますが、

私はひとつ疑問を持っています。

 

それは、一件が済むと、つまり差別発言や行動を起こした人間が一線を退くと、差別反対と叫んでいた女性たちがさーっと退いていくのです。もううんともすんとも言わないのです。これまでもいくつか見受けられました。

 

渦中の人がその座にしがみついている間だけ「女を馬鹿にするな!」とわーっと騒ぐだけでは、本当に差別によって虐げられている女性が表に出る機会まで到達できません。

 

私はこういう運動こそ常に生活の中に溶け込まなくてはいけないと思うのです。

 

さらに以前から思っている感覚としては、往々にしてわーっと叫んでいる、叫べる女性たちは強い、ということです。

 

男性に何を言われようとも発言できる、言い負かす知識も行動も備わっている、殴られても殴り返せるかもしれない、自分が怒り泣いても仲間がたくさんいる、実の所本当の差別の怖さを知らない人が多いのではないでしょうか。

 

そうでなければ、無防備に訴えを起こせないはずなんです。

 

私の経験上、たった一人で「ひどい差別」を一度でも受けた人は、その時のことに打ちのめされ相当の勇気や仲間がいない限り自分からは声を出せない人が多い気がします。批判の行動を起こそうとすると、以前経験した報復や執拗ないじめを想像して足がすくむからです。

 

それだけ、差別された後の傷は根深く、辛いものです。

 

 

女性、男性だからと言った差別を撤廃するためには、自らの持ち前や行動を鍛錬し自信をつけるしかありません。真の差別とは自分との戦いだと思ってこれまで来ました。

 

なぜなら、差別を感じない女性も存在するからです。求めるポジションで男性とともに共同で働ける人たちもいます。この差はどこからくるのでしょうか。


私に女性であるゆえ虐げ、私の自信を失わせた存在は決して男性だけではありませんでした。男性に沿わないと働けない女性も含まれていましたし、男性群の中で能力が劣りレースからはねられた、女性にぶつかるしか憂さを晴らせないつまらない男性がほとんどでした。

 

私は、自ら土俵を移しました。自分らしく行動できる、人にとやかく言われない場所をもがきながら探しました。そして、理解のある人々に支えられ、自分らしく働ける場所を見つけた時の心の平安には思わず涙することもありました。

 

重ねて、自分が少し強くなった気にもなりました。例のない行動ゆえにとやかくいう人もいましたが、聞く耳を持たない言葉だ、と跳ねつけることもできました。

 

つまり女性差別の敵は、世間でいう、ある古い世代の男性の潜在的差別意識だけではないということです。弱く自立できない男女によって虐げ、虐げられる構造から起こるものだと思っています。

 

なので、私は今後も弱い女性へ弱い人が叩くような差別は続くと思っています。

 

しかし、能力を見つけ自ら努力をする女性には、必ず人は手を差し伸べます。女性だけではなく理解のある男性も存在します。

 

女性差別の根源は男性だけではない、そして、差別されない方法はある、私はそう思います。