メンタルサポート総合学園(クマの手カフェ) カウンセラー養成プロコース 在校生の心の気づき・成長ブログ! -2ページ目

メンタルサポート総合学園(クマの手カフェ) カウンセラー養成プロコース 在校生の心の気づき・成長ブログ!

クマの手カフェを運営する北浜「メンタルサポート総合学園」プロコースの生徒や卒業生(クマの手カフェスタッフ)の気づきや成長。

メンタリストやカウンセラーとして必要なことを学び、お店での体験などリアルな在校生や卒業生・スタッフの目線で綴っていきます。

 

今回はつい先日私の身に起きた、ちょっと不思議な体験をお話ししたいと思います。 

 

一週間ほど前、ある仕事で大失態をしでかしてしまいました。 

気のゆるみやちょっとした慢心があったのか、自分にとっての無意識の苦手意識が起こったのかわかりませんが、それまでできていたものが急にできなくなりました。 

相手方に迷惑をかけた上に、上司に最終的な尻拭いをさせるというとても恥ずかしい出来事でした。 

 

最後までやり遂げられなかっった自分への悔しさ、情けなさ。 

 

スムーズに進められなかった不甲斐なさ、失望感。 

 

また次にもこんなことを起こしてしまうのではないかという不安、焦り。 

 

色々な思いが入り混じって、周りからは責められるどころか慰め励ましてもらったのに、虚脱感でボーっとしていました。 

 

 

そしてその日はうつうつと眠りあくる日の早朝、目が覚めてベッドでぼんやりと、本当はしたかったことなのに諸事情でできなくなったあることについて考えていた時でした。 

 

「我慢したくない!!」と叫ぶ10歳位ぐらいの私が急に現れました。 

「私は本当はしたかった、でも我慢した、だけどやっぱりイヤ!」そして堰を切ったようにあふれ出る涙・・・ 

 

またそこへ「そんな我儘を言ったら駄目!」と叱る大人の私が登場し、二人が喧嘩を始めました。 

 

対立する二人の情動がせめぎ合い心の扉が全開になって、過呼吸寸前まで泣けて泣けてコントロールを完全に失ってしまいました。 

 

 

こんなに大人になって10歳の私が現れるなんて、前日の切羽詰まった感情が私の中に眠っていた情動を起こしてしまったのでしょうか。 

 

本当に驚きでした。 

 

人の心ってやっぱり不思議で、自分でも気づかないうちに抑圧したり否定したり、物事から逃避しようとしていたりします。 

 

自分にとって不都合なことから目を背け続けていると、本当に自分の欲していることや望んでいることまで見えなくなってしまいます。 

 

それをわからせてもらえた涙だったのだと思います。 

 

今回のような情動の溢れを体験したことはとても貴重な体験だったと思いますし、それを自分なりに咀嚼し、この先生きていく力に活かそうと思えるのは、メンタルの勉強をしてきたからなのだと思います。 

 

色々な人のそれぞれの思い、まだまだ奥深い心の世界。 

誰かの心を少しでも軽やかにするお手伝いができる人間になりたいと切に願っています。 

 

今回のテーマは受容と共感についてです。

友人や職場仲間、家族などそれぞれに悩みを相談されることってありますよね。
そんな時にあなたならどんなふうに聴いて、どんなふうに答えますか?

自分と考え方が似ている。
同じような悩みを抱えている。
立場や状況は違えど自分も経験したことのある事柄。
等々、「あ~わかるわかる!」ということはとても同感できるので、いともたやすく受容できそうですね。

けれど全く違う価値観や考えの人であったり、自分にとって思いもかけないような出来事を相談された時には「そんな気持ち私には理解できないし、あなたの考えが間違っているんじゃない?」と受け入れがたく思います。

今まで生きてきた過程で私達一人ひとりが培ってきた私の生き方・信念は、物心がついてから今現在までに経験し傷つき喜び涙して得てきた私の考えですから、誰にとっても大事な自分だけのものです。
これが自分と違う価値観・考えを持っている人の思いをはねつけて受容できなくさせるのです。

それでも相手の話を聞き受容と共感をしようとするとき、間違ってはいけないのは表面的に共感をすることが目的なのではなく、相手を深く理解することが一番の主体であるという点です。

自分が経験してきた似たような事柄を相手に当てはめてわかったような気になったり、一般的な解釈を施して利いた風なことを言ったりしては、相手の気持ちを理解できたことにはまったくなりませんし、かえって反感を抱かれてしまいます。
中途半端な共感ならば、わからないと言われたほうがむしろさっぱりと気持ちが良いかもしれません。

ではどうすればよいのか?
まずは相手の話にしっかりと耳を傾けること、その人だけが経験してきた唯一の物語であり、その人だけが語りうる言葉に込められた思いを知ること。
何を思っている?何にこだわっている?何に怒っている?どれだけ傷ついている?と考えながら深く感情を探り、情報をキャッチする感度を研ぎ澄ませていくこと。
そしてそれらを総動員してもなお、他者の心の中がすべて理解できるものでは無いということを知ることなのです。

わからないを知ること、常に自分はまだまだ未熟で発展の途中であると思うこと、これが相手を理解するうえで一番重要なことであると思います。

人を受容し共感することの難しさを今身をもって感じ、それでもそこに確かにある優しさや温もりを感じられる人間でありたいと願っています。
 

 

今日はカウンセリングを行うことによって訪れる心の変化、行動の変化を実例を交えながらお話ししたいと思います。

以前このブログ内で書いた、ある女性の高校時代のいじめ体験を軸にしたカウンセリングのその後です。


些細なきっかけで今まで仲良くしていたグループから無視や陰口のいじめを受け、それがトラウマとなって何かが起こるたびにすべて私が悪いせいだと思いこみ続けていた彼女は、過去のマイナス感情の記憶をプラスに書き換える上書きのアンカリング、また強烈に抱え続けていた自己の囚われを俯瞰してみることでの新たな意味づけがなされることで、長年のトラウマから解放されました。


カウンセリングの最後にこれからの取り組みとして、彼女に2つの宿題を出しました。

常に自分が悪いと思わない

不自然に笑わない


①は、彼女が今まで自分が悪いのだからと、家族や友人など周りの人につねに気を使い続け抑圧してきた日常を変え、自分が本当に思っていることを伝えることができるようになりました。
そして抑圧から解放されたことで生まれた心のゆとりから、それまでは自分の心はどうであれ相手に合わせることしかできなかった行動を、自らの意思でどう行動したいかを選択できるようになりました。


②は、それまでは普通に会話しているときも必要以上にニコニコしている彼女に違和感を覚えていたのでそれをやめてみるように促してみました。

すると今までは、人の顔色を窺って気を使って会話しているので誰と会っていてもどこか息苦しかったのが、不必要な笑顔を引っ込めることで楽しんで会話ができるようになり、びくびくしないことで余裕が生まれ相手の感情を読み取れるようになり、コミュニケーションがスムーズになったということでした。


また、日々さまざまな気づきがあり

夫との関係の変化⇒ずっと自分は従うもの属性だと思っていたが、専業主婦であっても人間としては対等なのだと気づく。


友人との関係の変化⇒相手の身勝手、不機嫌を受け入れるだけだったのがNOと言えることによって相手が譲歩するようになり関係性が好転してきたことに気づく。


そして毎日がなんとなく過ぎグレーだった世界に、光が差して輪郭がはっきりと感じとれるようになった、長い間忘れていたおしゃれもしたくなり毎日をワクワクして過ごせるようになったと、カウンセリングをしたことへの感謝を表してくれました。


どんどんと成長・適応していく彼女を見られること、カウンセラーとしての喜びはここにつきます。
これからも彼女の一応援団として見守っていきたいと思っています。

 

先日7回目の授業が終わった、プロコース15期生のHSです。
今回は、学びの折り返し地点で私が気づいた「考え方のクセ」についてです。

■正解のこたえ
「いま、わたしの感じていることは『正解』なのだろうか。」
プロコースの講義中、無意識だけど、ずっとそんなことばかり考えていたように思います。

授業では、自分の課題について気づいたこと等を発表して、その後フィードバックをもらいます。同じように、仲間の気づきに対してのフィードバックもしかり、何かにつけて自分の意見を求められるのですが、これが私は苦手で苦手で。
以前もブログで書きましたが「マインドが入っていない」なんて指摘をされるので、正解を探してしまう私には恐ろしくてさらに発言できなくなるわけです。

「正解」を探して、正しく答えたい、答えなければならない、失敗は許されない!の
「~べき」が瞬時に発動する 
 ↓
怖くて発言できない → 思考がシャットダウンしてフリーズしてしまう/回避に入る
当たり障りのない意見になる →(だからマインドが入っていない・・・)
 ↓
さらにネガティブスイッチが入り、「できない私」「ダメな私」にフォーカス。
予期不安が発動して、またこうなったらどうしようとネガティブスパイラルへ。
 ↓
自信喪失
 ↓
やる気をなくす  逃げたくなる

内観して明確化してみると、ああ、これって今までの人生で数々登場しており、どうやら
「パターン化」しているらしいことに気づきます。

■どうして正解じゃないとこわいのか
私の中には「内なる批判者」がいて、常に自分にダメ出しをしています。
これではがっかりされるよ、バカだと思われるよ、受け入れられなくなるよ、
だからちゃんとしないと、頑張らないと、もっともっと・・・。

これは幼少期にうえつけられたマイナスのアンカーをきっかけに、否定されないために、怒られないために、嫌われないために、「こうするべき」というマイルールを作って、一生懸命自己防衛をしてきたんですよね。
私のこの自責は、他者に一瞬で投影されて、ちょっとした指摘でも必要以上にジャッジされているように敏感に感じ取り、結果人が怖くなるという自動思考でもありました。

 冷静に客観視してみたら、授業の場では、誰も私を否定も批判もしていないし、むしろ暖かく受け入れられている。情動がでたら(怒りなどの感情を素直に出したら)、批判するどころか、喜んでくれる・・・。

いつもの私なら、ここでも「『正解を出したい』と思っている私ってダメやん!」とすかさず自己批判になり、ゼロどころかマイナススタートになります。
「今はしょうがないよね、そう思ったんやから。」といったん受け入れた上でのパターンチェンジをしていきたいと思っています。

■気づき
プロコースに学びに来てから、たくさんの自分の「考え方のクセ」に気が付くようになりました。自動思考でどんな反応を自分がしているのかも。そして、そのクセが長年の生きづらさの原因の一つでもあったことにも。
まだ「ああ、今の私は結構かたよった考え方のクセがある状態なんだなあ」と自分で知ったところであり、大きくリフレームできているわけではありません(笑)
でも、これに気がつくことができたから、これから自分でバランスをとることもできるってことですものね。自分を自分を客観視してみることの第一歩。
授業で先生が「センタリング」という言葉を多く使われるのですが、かたよった考え方をニュートラルな考え方に戻す。気づいたら戻す。これを繰り返してアンカリングしていく。

授業ではカウンセリングのロールプレイングが始まりました。
またこのクセは度々発動するでしょうが、ここでの経験はすべてが学びにつながっています。

また、お付き合いください。

 

親と子の繋がりとは無関心すぎてほったらかせばネグレクトになるし、関わりすぎると過保護・過干渉になるし、ほどほどの関係性というのはなかなかに難しいものです。
皆それぞれの子育て論を持っていたり、世の中には様々な情報があふれています。

最近ちょこちょこ耳にするのは≪ヘリコプターペアレント≫という言葉ですね。
自分の子供が傷ついたり、困難にぶつかったりしないように失敗を回避させるため、子供を監視続ける親―それがあたかもヘリコプターが上空でホバリングしているように見えることから名付けられています。
子供が自分でしなければいけない事でも親が手を出す、子供同士の喧嘩や決め事にも口をはさむ、とにかく子供が自分で乗り越えていくべきものを親が常に先回りして取り除いてしまうのです。
こんな風に書けば、なんとけしからん親だ!子供の自主性を踏みにじる態度だと糾弾されるかもしれませんが、日本人のきめ細かい性質や、親の学校への要求がエスカレートしているような近頃の状況においては、非常に陥りやすいものであるともいえます。

また厄介なのは、親が子供のために良かれと思って行っている点です。
自分の子供が幸せになってほしいとほとんどの親は願っています。
それは親の慈愛であり美しいものですが、そこに自分が果たせなかった夢や希望、ちょっとした見栄・打算、はたまた正体の知れない不安感などが混じったとたんにぐにゃっと歪んでしまいます。
でも歪んでいることを認識できないまま暴走すると、もうそれはヘリコプターペアレントに違いありません。

子供が失敗や困難に立ち向かわずに、決断したり判断したり、また危険を察知して回避したりする経験をしないまま大人になってしまうと、社会に出たときにどう対処すればよいのかわからず立ち止まってしまいます。
子供が失敗から学ぶことは大人が思うよりずっと大きいものです、子供自身の生きる力を親自らが奪ってしまわないように、私たちは心して気づいていかなければなりませんね。

 

初めまして、13期生のPです。 

 

プロコースを卒業してから、コロナと仕事が忙しくなったことで、学園から足が遠退いていましたが、昨年末にプロコースを受講生の方々とお会いし、刺激を受けて心の学びを再開することを決断。 

学びのひとつとして、ブログに『心の気づき』を投稿することになりました。 

よろしくお願いします。 

 

今回の私の気づきは、 

『もやもやの正体=自分の本当の気持ちについて』です。 

 

『もやもやの正体が自分の本当の気持ち』だと気がついたきっかけとなったのはこの投稿でした。 

心の学びをすることで以前よりも自分の思ったことを言える様になったし、文章を書くのは苦手だけど大丈夫、先ずは挑戦することが大切だと張り切って『やります‼️』と言ったもののなかなか進まず、下書きしては違和感(もやもや)を感じて書き直しをするという作業を約1ヶ月繰り返しました。 

ある程度の文章ができているので投稿しようと思えば直ぐできるのに『何でこんなに違和感(もやもや)を感じるんだろう』、『どうしても投稿したくない』という気持ちが溢れてくると共に、みんなは沢山投稿しているのにできない自分がいることにも焦りと苛立ちを感じました。 

そこで、漸く気づきの内容を『もやもやの正体』と『どうしても投稿したくない気持ち』をクローズアップすることに変更し、書き出してみました。 

すると、始めは『文章が下手だから』とか『言語化が苦手』など当たり障りのない理由がでてきたのですが、掘り下げていく内にとうとう『本当の気持ち』が出てきたのです。 

 

その正体は『怖い』と言う感情でした。 

それが出てきた瞬間に驚いたと同時に、物凄く納得がいく自分がいました。 

あぁ、私は①過去に何気なく言った言葉で他人が怒ったり傷ついたりしたことや、②ねじ曲げられた噂話が自分の知らない内に広まっているという2つのトラウマもあり、自分自身を知られる恐怖(知られたくないと強い思い)が『もやもや』というストッパーを産み出していたことが理解できたことで、『違和感というもやもや』が晴れ、何だか胸がスッキリしたのです。 

 

この事を気づきとして投稿することについて、正直ちょっと悩みました。 

でも、今回ジョハリの窓でいう『未知の窓』の部分がわかったし、開放することも心の学びと思うので、勇気を出してこの出来事を投稿することにしました。 

気づきを通して自分を知ると共に、それを投稿にてオープンにすることで成長できる様に頑張ります。

 

今日は子供の視点からの親子関係のお話をします。
現在 親である人もどんな人であっても子供時代はあります。
忘れてしまったこともいっぱいありますが忘れられないこともそれぞれの胸にあります。
何を覚えていて何を忘れているでしょうか?
私達はしてもらったことよりしてもらわなかったこと、愛されたことより愛されなかったことの方をより覚えているのではないでしょうか?
 

私と姉の話になるのですが ずっと忘れられないことがあります。
それはまず私が小学校低学年ごろのことまだまだ幼く父の布団に潜り込んで一緒にテレビを見ていた時 ドラマ中の父親役の人物がとても姉娘をかわいがっているのを見て 「そりゃあ上の子が可愛いよなぁ」とぽつりと言ったのです。 
たぶん父はほんの軽い気持ちで言ったのでしょうし、私が幼くてそんなことを深く受け止めるなどとは思わなかったのでしょう。
けれど、その時の衝撃と悲しさ、寂しさを何十年経った今も私は忘れられずにいます。
その後も父の布団に入っていたのかはもう覚えていませんが 何とは無しに父との間に壁ができてしまったのか 距離を感じてその後の人生を送ってきた気がします。

そして姉には「お父さんはお姉ちゃんが可愛いもんなー」と口に出して言っていましたし、家族にも周知の事実となっていました。
 

そして時は流れ 私達が40代になって母が亡くなってから 母の思い出を話していた時 姉が「お母さんはY子(私のこと)の方が可愛かったからね」と言い出したのです。
「え?そんなこと思ってたん?」 
「うん、子供の時からずっとそう思ってたよ」
思いがけない姉の言葉に 何も言えない私が居ました。
幼いころからずっと口に出せず思い続けてきた姉の心のうち、父のことで少しひねくれて周りに漏らしていた私、どちらが辛かったかと言えばそれはきっと姉でしょう。

そうなんです、人は自分が愛されていることにはなかなか気づかず愛されていないことの方にばかり気を取られてしまいます。
親子関係も恋人や夫婦関係でも私たちは皆愛されたくて愛されたくて必死にもがいています。
幼い子も大人になってもそれは変わっていないのかもしれません。

でもあなたを想ってくれている人の声を聞き逃さないでください。
そしてあなた自身が誰かへ愛の手を差し伸べてください。
求めるだけでは見えない世界が あなたの前に広がっています。

 

前回に引き続き親子関係です。 

このところよく言われている毒親については 昨今一種のブームのようになって 様々な本や漫画等に 自らが毒親育ちであるという筆者によって描かれることが多いようです。 

これは自己愛の強い親(特に母親が多い)によって ネガティブな感情と行動を

執拗に繰り返され、人生を支配されコントロールされてきた子供(元子供も含む)の

心からの叫びであろうと思います。 

 

いろいろな指標はあると思いますが毒親にははっきりとした定義があるのではなく 

子供にとって毒になる親という存在を表した言葉であり 程度も状況も様々です。 

生死に係るほどの暴力、完全放置のネグレクト、性的などの極端なものは

ごく少数であろうし これは然るべきところが介入する問題であって 

本人の気持ちでどうにかなる類のものではありません。 

 

ここでは 精神的なバインドをかけられてきた人にフォーカスしています。  

 

毒親に育てられてきたと認識している人にとっては 

人生はつらいことの連続であったことでしょう。 

 

そして一様に見られる特徴は 自尊感情 自己肯定感の低さです。 

自らを価値ある存在である、私は愛される人間だと認識する子供時代に

くり返しくり返し親から否定的な言葉を投げ続けられていては 

自己肯定が高まるはずはありません。 

 

こうして思春期、成人になっても 常に悪いのは私である。 

周りがうまくいかないのは私の努力が足りないせいだと 

極端に考える人が出来上がってしまうのですね。 

 

そしてその思いには 自分が気づいている、いないを問わず激しい怒りの感情が隠れているように見受けられます。 

なぜ私はこんなにも生きにくくて なぜ私は常にマイナスの感情にコントロールされて 

なぜ喜びを全身で受け止められるような生き方ができないのだろう‼ 

こんな思いにさらされ続けることは並大抵ではなく 普段はそれを感じないように抑圧し続け 自分で作ったペルソナを着けて生活している人が大勢いらっしゃることでしょう。 

 

そんな思いからの脱出の入り口が 今の状況 自分のこれまでの生い立ち 

親の言動等々を 自分の側から見るのではなく 一段高い所から客観視してみること

なのです。 

辛い 悲しい 悔しい 愛されたい それらの感情を一旦脇に置いて 今までのことを他人の人生の様に眺めてみましょう。 

何が見えてくるでしょう。 

悪いのはあなたではありません。 

  

一日も早くそのことに気づき 価値ある存在であるあなたが 自分の人生を 喜んで生きられることができますように。 

 

次回に続きます。

 

老化の常識に対する挑戦状

アンチエイジング(抗老化)にはどんなイメージを持っておられるだろう。

大枚をはたいてやっているという積極派から、

なんとなくうさんくささを感じる懐疑派、

あるいは、

とくに興味はないという無関心派などに分かれそうである。

 

しかし、たとえどの派に属していても、

この本に書かれている老化についての物語を読めば、

絶対に驚かれるはずだ。

 

『LIFESPAN(ライフスパン):老いなき世界』

言い換えると、老化現象は、正常とまでは言えなくとも、

それに近いプロセスであるということだ。

 

老化だから仕方ないと言われたら、諦めて納得してしまうのはそのせいだ。

 

もう1つ間違いないのは、目が悪くなる、膝が痛くなる、腎臓の機能が落ちるなど、

その症状は極めて多彩であるということ。

 

すなわち、老化現象というのは、働きのまったく違う臓器が、

さまざまなメカニズムによってそれぞれに侵されていく過程であると考えることができる。

 

これら2つのことに異論を唱える人はおられないだろう。

 

しかし、この本は、これら2つの「常識」に対する挑戦状である。

 

……と聞くと、トンデモ本ではないかと思われるかもしれない。

 

しかし、それは間違っている。

 

驚くべきことに、本の内容は科学的な立場から見て、極めてまっとうなのである。

 

著者はデビッド・シンクレアとマシュー・ラプラントで、ラプラントはサイエンスコミュニケーションが専門の大学教員にしてジャーナリスト。そして、シンクレアは老化研究では知らぬ者のない第一人者である。

 

老化は正常な過程ではなく「病気」である、というのがシンクレアの基本的な考えだ。

 

すべての人に訪れるからといって、病気ではなくて正常過程だと考える必要はないのではないか、

という解釈である。言われてみれば確かにそうだ。

 

老化によって生じたとされるさまざまな症状すべてをひっくるめて、

「老化という疾患」と捉えることはできる。

 

そんなもの言葉遊びではないかと思われるかもしれない。

しかしそう考えると、老化というものが、

不可避な現象から予防や治療しうる対象へと転換される。

 

これは大きなパラダイムシフトだ。

 

 

つづく・・

 

 

親子の関係性というものは 

一体いつまでその人の人生に影響を与えるものなのでしょうか?

 

様々な人に会って 

その人の心の話を聞くたびに 

こんなにも深くダイレクトに 

考え方や行動に関わってくるものなのだと思い知らされます。

 

一番に思い起こされるのは 

 

虐待ですね。

 

身体的・性的・心理的虐待 

そして育児放棄であるネグレクト。

 

どの虐待であっても 

子供に与えるマイナスの影響は計り知れませんし 

成長し大人になっても 

本当の意味でその呪縛から解放されている人は少ないのではないでしょうか。

 

また 

虐待などしているつもりも 

されている自覚もないままに過ごしてきた人も多く、

実際それ程のことがない人がほとんどだと思います。

 

誰の目から見ても明らかな虐待ではなく 

誰にでも起こりうる・起こしうる親と子、

また養育者と子供についての話をしたいと思います。

 

親だって人間です。

 

完全な人、問題の無い人など存在しません。

 

それを批判するつもりなど全くありませんし、

批判したところで何も解決しません。

 

要は親も子も 

何に気づき、

何を改め、

自分の人生をいかに幸せに 

有意義に送れるようになるかということですね。

 

恥ずかしながら 

まずは私自身の話から始めます。

 

私には二人の成人した子供がいます。

 

関係は良好ですし 

支配や抑圧 

ましてや虐待などするはずもなくしてきたつもりもありませんでした。

 

しかし、心の学びを始めて 

目から鱗が落ちるように気づいたことがありました。

 

今までの私は 

子供の話を聞く時は 

指示やアドバイスをするのが当然だと思っていたこと、

私が決めて私が言う それが正解だと思っていたことに気づかされました。

 

もちろん子供からの反発や拒否はあるので、

それを捻じ曲げて説き伏せるようなことまではしていませんでしたが 

相談された時にはまず

 

「こうしたらいいんじゃない? これが一番の方法と思うよ」

と話し、

 

子供が自分で考える力・解決する力を育めていなかったのだと痛感しました。

 

私の子供への過保護・過干渉が

彼らの可能性を狭め、

飛躍の翼を与えられてこなかったことに 

今更ながらに気づき頭を殴られるような思いでした。

 

親も子も皆 

悩み傷つき 

何がいいのかわからないまま 

もがいています。

 

 

心の学びが その一助になることを願ってやみません。

 

 

次も引き続き 親子関係について書きたいと思います。