歴史と言葉は、まさにその giant steps なのであって、自ら形作り、その表現を編む。

 

 他から要請される模範な「言葉」は、それが解答ではあっても、実につまらない。

 

 なぜなら、解答=現世での御利益、だからだ。

 

 即物的だからだ。

 

 この即物性は、実に徹したら、歴史とか言葉になるのだが。

 

 これらに卑屈であると、自ら giant (バーサーカー)であることを否定する。

 

 そして、手なずけられる英霊になる。

 

 

 

 昔、大学の社会思想史の授業で、城塚さんは言っていた。

 

 近代とは、計算可能の拡大であると。

 

 まあ、確かにその通りだ。

 

 ただ、問題は計算の対象が何かということだ。

 

 

 

 

 

 誰もが、この森羅万象たる物自体だと思う。

 

 しかし、実は、この自分たちのまわりの周囲網だとは思わない。

 

 自ら発し、そう信じて疑わないもの、これこそ計算の対象だ。

 

 よく見積もり、よく管理されるばかりの物だ。

 

 物自体を求める者は、「mad scientist」 という称号を課せられる。

 

 

 

 まあ、それでもいいかっ!

 

 mad scientist ってことで。