精神科治療学① ~セラピストの存在稀薄性・不在性:「気配」療法~ | ゴキ博士の「精神学」講義

ゴキ博士の「精神学」講義

ブログの説明を入力します。

日本生まれの心理療法・精神療法の特徴の一つとして、セラピストの不在性あるいは存在希薄性を挙げることができる。たとえば、遍路(これも心理療法の一つとみることができる)においては、ひたすら、歩く。歩くこと自体が心理療法性を秘めているが、金剛杖と共に歩く。金剛杖はお大師様(空海)であり、空海と共に歩くとも言える。仮に空海がセラピストであるとするならば、まったくしゃべらないセラピスト。受容とか共感とか解釈とか、そういうことは一切ない。ただ、そばにいるだけ。「気配」があるだけ。

 森田療法や内観療法はどうだろう。森田療法の絶対()(じょく)においては、医者は時々顔を見せる程度。内観療法もそう。西洋由来のカウンセリングとは随分趣が異なる。

 河合隼雄はユング心理学を日本に導入したが、「もの言わぬ分析」とでも言うべきものを確立した。私は河合の分析を96時間経験したが、本当にものを言わない。受容とか共感とかそういったまなざしはない。

 これも河合が日本に導入した箱庭療法はどうか。セラピストは、そばにいるだけ。まったく口は差し挟まない。クライエントがひたすら箱庭に向き合う。それを見守るだけ。

 ゴキの説によると、写楽は「自己絵画療法」を自らに行った。このことは『写楽の深層』に詳しい。

 

 「こころ」あるいは「たましい」を扱う心理臨床や精神科臨床において、西洋由来の在り方が、そのまま導入されてよいわけがない。にもかかわらず、まかり通っている。ここいらで日本発生の心理療法・精神療法にしっかり目を向け学ぶべきであろう。

 日本の心理療法・精神療法においては、セラピストの存在が希薄である。気配だけ。「気配」心理療法、「気配」精神療法とでも言うべきものが日本にはある。「気配」

は、しゃべったり受容したり共感したりしない。気配の在り方そのものが厳しく問われる。非常に難しい。だが、このレベルを目指さないで、日本における心理援助は困難であると考える。わかったようなことをしゃべり続ける精神科臨床・心理臨床からは卒業しないといけない。