ホリエモンが教えてくれたこと
ホリエモンが教えてくれたもの。
1、ライブドアは、ITに名を借りた新手の乗っ取り屋であった。外見で人を判断するな。
世の中は、IT時代と言われて久しい。ITという枕詞さえあれば、耳に心地よく聞こえたことは事実である。
しかし、今回の事件ではっきりしたことは、ライブドアの本業であると世間が思い込んでいたIT関連のウエイトは非常に小さく、収益の大部分は、企業買収と株価つりあげによるマネーゲームで稼いだものという事実である。その本質は、従来の乗っ取り屋と変わらなかったということである。
ただ、従来の乗っ取り屋は、裏社会のイメージが強く、表に出ることは少なかったが、ライブドアは、時代の先端のITという隠れ蓑をかぶって華やかに表社会に登場したため、誰もが、そうと気付かなかったのかもしれない。
言葉を変えれば、アロハシャツを着て顔に傷のあるヤクザ者には誰もが警戒するが、背広を着て丁寧な言葉使いで話し掛けてくるハンサムなヤクザ者に対しては、警戒心が薄れがちであるといったところか。尤も、ホリエモンは背広は着ていなかったが。
「外見で人を判断したら痛い目に会う。」これは事実であった。
これについては、大部分の無責任マスコミが時代の寵児としてはやし立てた。タレントとしてバラエティーに登場させたTV局が登場するに至っては開いた口がふさがらない。マスコミの本質とは言え、実に軽薄である。背骨のないマスコミが、逮捕後のホリエモンをどう扱うか。おそらく毀誉褒貶であろう。論調の豹変ぶりを含め楽しみである。
2、ホリエモンにはセンターがない。信長ではなく紀伊国屋文左衛門の再来。
ホリエモンが登場した時、世間は、①どこへ行くにも誰と会うにもTシャツ姿という型破りないでたちであったこと、②旧来の価値観を打ち破る発言が目立ったため規制緩和以上の規制破壊を推進するのではないかという期待感、の二つから、織田信長の再来などという大袈裟な評価をした。
しかし、信長と本質的に異なる点は、信長には、「応仁の乱以後の戦乱の世を早く終わらせて平和な社会を作り、戦乱で疲弊した経済に自由主義的システムを導入して民生を安定させる、そのための天下統一を強力に推進するのが自分の使命である。」という崇高な経営理念、揺るぎないセンターがあった。
因みに秀吉や家康は、信長の考えたことを継承・推進・完成させただけでであり、決して考えてはいない。信長は日本の歴史を中世から近世へと変えた稀代の天才である。ついでながら近世から近代へと変えた天才は坂本竜馬であると、私は信じている。
しかし、ホリエモンのセンターは「自分本意、マネー至上主義」のみで、崇高な理念があるとはどうしても思えない。したがって、ホリエモンの公の場、目上の人と会う時の奇抜な服装は、個性ではなく、単なる非常識・礼儀知らずに過ぎなかった。信長とは、本質的に次元が異なるのだ。ホリエモンを歴史上の人物で例えるならば、元禄時代に、派手に表舞台に登場し、パーッと消えて行った紀伊国屋文左衛門か。
余談だが、良い悪いは別にして、揺るぎないセンターと信念を持ち、何かを推進することが自分の使命であると信じているリーダーには迫力があると思う。
私は小泉首相の支持者ではないが、小泉首相にはこれがあると思う。直前の森さんは、いかに懐の深い大人格の人であっても、国作りの具体的なビジョンとそれを推進する使命感に決定的に欠けていたと思う。少なくとも私はそう感じる。人格と調整が得意技の人では、平時は別として、変化の時代のリーダーは務まらないのかもしれない。
3、類友の法則は本当。こんな価値観が主流になったら世も末。
ホリエモンは印象に残る発言をしてきたが、どうしても聞き捨てならない発言があった。それは「金で買えないものはない」、「人の心は金で買える」のクダリである。こんな発言を平気でストレートに出来る人に、天下は取ってもらいたくないと感じた。というか、こんな価値観の人が天下を取ったら世も末だと思った。
人間の心とは、本来弱いもので、特に金に対して弱いことは事実である。金の嫌いな人は稀有であろう。特に、金に困ったケースでは不本意ながら心を売ることも有り得るかもしれない。これは認めたくないが事実である。
しかし、世の中の全ての人間が、金で心を売るわけではない。そうならないための道徳感や倫理観の醸成を家庭で習ってきたはずである(今の小中学校では、この部分の教育というか躾は期待できない。)。ホリエモンは、もしかしたら、今までの人生で、マネー至上主義の価値観を持った人々としか付き合ってこなかったのかもしれない。ある意味、悲劇だったかもしれない。勿論、マネー至上主義の価値観を否定はしないが、少なくとも、こんな価値観の人が、人に影響力を与える立場に座ることは決して許されないと思う。世の中のためにならないのだから。
逆説的に言えば、少なくとも人の上に立った経験のある人なら、金で人の心を買えたなら、組織運営が、どんなにか楽だろうかという体験をしているはずである。人を本当に動かすには、金が大事な必要条件の一つであることは認めるが、もっと上位概念のもの、例えば、リーダーの生き様への共感、感動等、人の心を揺さぶるものがなければ本当に動いてはもらえぬものである。
4、結論です。日本人よ、アメリカ流に染められて心を失うなという最終警告。
私は、日本人に生まれて本当に幸せだったと思う。①戦争はないし、飢えの経験もしたことがない。まずは命の保証はされている。②上を見ればきりはないが、ヨーロッパ以上の世界有数の快適な生活を送ることが許されている。③最も大事なことだが、戦後世代の私でも、日本人としてのプライドを持ちえた時代があった。それはこうである。1,日本人は世界でも類を見ない伝統を持った、優秀な民族の一つであり、戦後の経済発展は世界の奇跡である。2,中国・韓国を除く、イスラム社会を含むアジア、アフリカ、南米等の有色民族からは、「武士道精神」という背骨をきちんと持った民族として尊敬されており、有色民族の手本となっている。
以上三つの幸せの条件を、家庭でも学校(勿論、日教組の教員からでは絶対にない)でも、刷り込まれてきた記憶があり、これは大人になったから外国に行った時の自分のプライドでもあった。
リーダーたる者の最大の使命は、その組織に属する者を幸せにすることである。国のリーダーの最大の使命は、国民を幸せにすることであり、企業のリーダーは、会社で働く人々を幸せにすることである。幸せとは勿論、物心両面の幸せである。物と心の両方が揃って初めて幸せと言えよう。その意味で、日本人に生まれることは、命の保証がされ、生活という「物」と、プライドという「心」の両面での幸せを手に入れられることだったのである。
これは、明治以降の政治家、軍人、事業家、学者等リーダーが優秀かつ強烈な使命感の保持者であったこと、また、数度の貧困と戦争という先輩国民諸氏の犠牲の上に成り立ってきたものであることを決して忘れてならないと思う。感謝の心を忘れてしまっては人間失格である。
ところが、ここ20年くらい、急速に、①アメリカ流の拝金主義、弱肉強食主義がはびこり、また、②中国に対しての屈辱外交(これに関しては機会を改めて記す)を採らざるを得ないという日本の精神面での背骨の脆弱化が露呈されてきたのである。プライドなどずたずたになってしまった。
これは、日本人の心の部分のDNAを意図的に組み替えたツケかもしれない。「日本人の頭脳部分が優等であることは事実であるが、心の部分のDNAは劣等であるから、優等なアメリカ人のそれと混血させることが、日本を発展させる必要条件である。」とばかりに、真剣に心のDNA組み替えに取り組んできた。
その結果、物面では確実に幸せになったきたが、もしかしたら、心面では気付かないまま不幸になる方向へ邁進していたのかもしれない。
昨今のマネー至上主義や、姑息な耐震構造偽装事件、後をたたない公務員の汚職事件等に、DNA組替えと直結ではないにせよ、かなり密接に結びついているのではなかろうか。
そろそろ終わりにしよう。ライブドア事件は、日本人の脆弱化した背骨に、カルシウム注射せよとの警告のように私には思われる。心の面でも幸せになれるように社会システムを変更せよとの最終警告のように思えて仕方がない。
守るべきもの
総選挙では予想をはるかに上回る自民圧勝となり、変えてはならないものから、変えなければならないものまで、ひとまとめに改革が推進するであろう。それには二つの理由がある。
一つは指導者の顔ぶれが変わりつつあることだ。かつて、日本は明治維新と戦後という二度の大改革を経験してきた。現在も国難に直面していることは異論のないところであろうが、過去二回の大改革は、それまでの指導者を社会的、時には生物的に表舞台から強制的に引退させた後、全く新しい指導者が改革を断行した。
そう言えば、傾きかけた会社再建の秘訣の一つは、社長と上級管理者を、新しい人と総入れ替えすることだとも言う。
もう一つは抵抗勢力への破壊攻撃である。巨大組織は、組織の本来の存立目的と乖離して、組織の維持そのものが自己目的化してしまう。堺屋太一氏は、その著書「組織の盛衰」の中で、組織の構成員が悪いとわかっていながら行う行為を腐敗と呼び、一方、正しいと信じ込み、組織の存立目的と相反するけれども、組織維持のためだけに行う行為のことを頽廃と定義した。ともに組織を崩壊させる原因となるのだが、後者は正しいと信じているからこそ質が悪く、抵抗力は実に凄まじい。末期の帝国陸海軍しかり、国鉄しかりであった。
話のスケールは小さくなるが、過日、百年以上続く老舗の六代目オーナーと話す機会があった。この老舗は、時代の変遷とともに、コア事業を変更してきたと言う。意外にも本業一筋でないため、さらに聞くと、「自分にとって守るべきものはオーナー家の発展継承であって、事業そのものではない。極論すれば、事業はあくまで、その目的のための手段に過ぎぬ。」と言う。
確かに徳島においても、阿波の藍商はコア事業を藍そのものから、時代に合わせて変更しながら、二百年以上も、したたかに生き抜き、発展を続けているではないか。自分にとっては、目からウロコであった。
巨大組織でもないのに、守るべきものを守らず、時代に翻弄されながら、衰退事業の存続に異常な執着心を持ち、コアを変更できずに、もがき苦しんでいる姿は、正に頽廃ではなかろうか。
もって他山の石とすべし。
会社十年の大計
郵政改革法案が衆議院を通った。早速マスコミが内閣支持率の世論調査を発表したが、大きな次元の意思決定、大げさに言えば国家百年の大計の評価が、即刻出来るのだろうか。尤も、私には郵政改革がそんなに重要かつ緊急優先の課題であるかどうかは判断できないが。
また、即刻の調査に意味があるのだろうか。一億総評論家と言われて久しいが、次元の異なる決定を十把一からげで評価するのは望ましいことではないと思う。世論調査は、まるで人気投票に堕落している。
私の言う次元の差と言う意味は、例えば会社で言えば、飲み会や慰安旅行の評価は即刻、翌日に出来ても、長期戦略の評価は、一年後でも不可能なように、意思決定対象には歴然と次元の差が存在するということだ。
また、ついでに言うと、何を決定するのかという決定対象の次元のみならず、どのようなプロセスで決定するのかという決定過程にも次元がある。例えば多数決で決めるのが望ましいことと、そうでないこととは歴然と存在する。これを決定するのがリーダーの役割である。忘年会の会場や、慰安旅行の行き先の決定は、多数決が望ましいだろうが、長期戦略を多数決で決める社長の辞表提出は時間の問題であろう。
ところが、組織が大きくなるにつれて「皆で決めれば怖くない」式のエセ民主主義がまかり通る。上場企業の社長でさえ株主総会を切り抜けるための短期業績にしか関心のない人が少なからず存在し、無難な評価で満足しているようだ。しかし、大きな次元の意思決定をした社長の評価は毀誉褒貶である。ソニーのCEOのアメリカの某誌での一年毎の両極端な評価(最高評価から1年後には最低評価になった)は記憶に新しいところである。
大きな意思決定の評価は何十年というスパンでされるべきであり、また独断的決定には必ず保証としての責任が伴うことを銘記すべきだ。例えば、評価に関して言えば、「単独講和、日米安保条約、経済立国」という戦後日本の枠組みを決定した吉田茂元総理の評価も、やっと出来る頃でなかろうか。また、責任で言えば、政治的解決の一手段として戦争の選択を意思決定した軍人、政治家は命で責任を取った。
余談だが、平成の現在、日本を、これほどの奈落の底(大不況、国家財政破綻寸前、年金制度の矛盾、少子社会、防衛上の不安、弱腰外交、教育崩壊、倫理観欠如、伝承すべき良き伝統を捨て去り、見習うべきでない習慣を導入、等々)に落とした責任者(数多くの政界VIPのことである)の責任は、全く追及されていない。少しドラスティックな表現をすれば、まさにA級戦犯であろう。
現在は、政治家のみならず財界リーダーまでも、国士然とした迫力、存在感が稀有である。これは、多次元のことを同時に評価しようとする世間の風潮、並びに意思決定の責任を合議制に押し付けようとするリーダーの資質と無関係ではなかろう。つまり、所謂「人物」が生まれにくい風土に飼いならされてしまったのかもしれない。
その点、中小企業のオーナー経営者は、志さえ高ければ(これが非常に難しいのだが)、誰に阿ることなく、せめて十年の大計を決めることが出来るはずである。そう言えば、昔、吉田茂は、かなり偏向した非現実的な理屈ばかりを言い立てる学者のことを「曲学阿世の徒」と喝破したことがあったけ。勿論、
会社十年の大計が上手くいかなかった時には、命の次に大事なものを全て失うという、大きな責任を伴うが。
経営者の同志よ、せめて我々だけでも、国士然と胸を張って、男らしく、高く生きよう!
脱植民地主義(徳島地域経済の植民地化を防ぐ)
最近、連続して夜の歓楽街に出向く機会があったが、人通りは疎らであった。歓楽街の人通りは、景気指標の一つでもある。日本全体の景気は、やや上向きとは言うが、徳島に関しては景気回復の実感は全くない。これは、一般的な地方の現状であろう。
この原因は多々あろうが、徳島の金が県外資本に吸い上げられていることもその一つであろう。
例えば食品取扱い店で繁盛しているのは、大型ショッピングセンターとコンビニくらいであるが、どちらも本社は県外であるケースが目立つ。この事実は、そこで使われた金が、徳島を潤すことなしに県外に流れてしまうことを意味している。
公共工事も、かなり大きな部分を、東京本社の大手ゼネコンが受注し、徳島に落ちる金額は決して多くないらしい。そして県外資本が徳島から金を吸い上げていく傾向は益々強くなっているように感じる。このままいけば徳島は植民地である。
そこで提案である。
例えば小売業であるなら、品質に有意な差がない限り、地元資本から優先的に仕入れ、また消費者も優先的にこれを購入するという広義の「地産地消」運動を起こしてはどうだろうか。
小売業で考えれば、徳島の仕入先の従業員の多くは、自店の顧客でもある。仕入先を潤すことで自店の繁盛につながる。逆に県外仕入先の従業員が自店の顧客になる可能性は低かろう。メーカーも小売業ほどダイレクトではないにせよ、原材料を県内から優先的に仕入れることで、廻りまわって自社の繁栄につながるはずである。公共工事も地元資本への優先発注で徳島経済への貢献にダイレクトに直結する。
勿論、県内企業の提供する商品やサービスが県外のそれと比べ勝らずとも、決して劣らないことが地産地消運動の最低の前提条件ではあるが。
ただし、この運動は、一歩間違うと排他的ナショナリズムとなり、企業努力を疎かにして長期的な競争力を低下させてしまう危険性はある。だが、県外資本に徳島から金を吸い上げられ悔しいと感じるのは自然な県民感情だとも思う。「まずは隗より始めよ」である。
勝っても負けても世界の孤児、ならば勝たねばならぬ。
昭和40年代後半から昭和50年代前半にかけて、日本は世界の孤児になりかけた。それは、GNPがアメリカに次ぐ第二位になるほどの、経済面での日本の一人勝ちのためであった。
戦後の廃墟から、僅か20年少々での経済先進国入は、世界の奇跡と言われた。
しかし、一方では、アメリカとの安保条約のお陰で、安全保障に金を使わずに、経済のことのみに集中すれば良いのだから、経済発展を遂げるのは当然であるというやっかみも受けた。また、エコノミックアニマルというありがたくない別称をも付けられてしまったのは、当時の欧米先進国に比べて圧倒的に低賃金であることをベースにした低コストで世界市場を席捲していったためであった。ただし、メイド・イン・ジャパンの製品には、世界に冠たる技術力を背景に、品質が優れているという大前提は存在していたが。
そして平成の現在、アメリカからの圧力によるイラクへの自衛隊派遣、中国、韓国での反日運動の高まり、北朝鮮の日本軽視等、またもや、日本が世界の孤児になりかけている。しかし、昭和と異なるのは、一人勝ちによる嫉妬によるものではなく、一人負けのための弱い者いじめであるような気がしてならない。日本は「いじめられっこ」になってしまったのかもしれない。
確かに、今の日本は、経済はガタガタ、国の安全保障もアメリカ頼み、年金・雇用等の個人の安全保障までもが保証されないような状況である。当然、社会不安は大きくなり治安は悪化、グローバル化の美名の下に、アメリカナイズされた価値観が入り込み、生きる上でのベースたる道徳観までもが、わけがわからなくなっているような時代になってしまった。どう見たって、勝っているとは言えまい。
こんな時に、ここぞとばかりに、近隣国が日本いじめ、日本叩きを始めた。
「国旗を焼かれたり、大使館投石等のあんな屈辱を許しておいてよいのか?」と、普通のまともな神経を持った日本人なら誰でもが思ったであろう。
尤も、これは、外交戦略の常套手段である「強大化する可能性のある隣国への牽制球(=弱いうちに叩いておけ)」ではあるが。
外交戦略について少し補足をすれば次のようになる。
有史以来、各国は領土拡大過程で隣国との衝突を日常茶飯事に起こしていた。特に大陸ではそうである。例えば、フランスとドイツ、中国と朝鮮半島、インドとパキスタン、ブラジルとアルゼンチン等、その例は枚挙に暇がないほどである。
隣国が弱いとなれば攻め込むし、逆に隣国が強大化すれば、攻め込まれる可能性が高まるのだから、何とかして隣国が強くなるのを牽制する。これは自然の摂理である。したがって、日本が国連常任理事国入して強国化(あくまで政治的に)することを嫌うのは必然なのである。攻撃の理由など、後からいくらでも付けられる。
ただ、ここで最大の問題なのは、勝っている時に「柳に風」と受け流せたことが、負けている時には、立ち直れないほどのダメージを受けてしまう危険があるということである。
学校の例で置き換えてみよう。
成績トップをキープしているガリ勉のA君は、少々いじめられても、実際に成績が良いし、それこそが生きがいなのだから、いじめなど、あまり気にもとめず、また、いじめっ子もA君には一目置いているため、徹底的ないじめはできない。したがってA君のいじめから受けるダメージも比較的少ない。
一方、何の特徴もない落ちこぼれのB君に対しては、クラスメートは完全になめきっている。復讐される心配もなければ、担任に言いつけられる心配もないので、B君は、徹底的にいじめられている。最後には、B君の言動の全てに対して、いじめっこでなかった普通の生徒までが流行のように、難癖を付けたり、ついには小突くような始末である。
B君のダメージはA君のそれより数倍であろう。そして、B君の1年前の姿がA君であったとしたなら、つまりは同一人物であったとしたら、その落差とも相まって、そのダメージは致命的なものとなっている。まあ、こんなところであろうか。
とにかく勝たねばならない。それは、外交戦略もさることながら、経済の立直しもである。そして最大の立直しが必要なのは、心なのかもしれない。とにかく「勝てば官軍、負ければ賊軍」「正義は勝った者の手中にある」は、世界の常識なのである。
勝ち方に品性は表れるけれども、とにかく勝たねば、何も始まらないということは、紛れもない事実のようである。
今日から書き始めます
こんにちは。赤池孝文と申します。
徳島ラーメンのサイトを開設しております。
ラーメン以外のこと、例えばビジネスのこと、徳島のこと、
その他感じたことを書き綴っていこうと思います。
まずは、地元新聞に投稿した「経済コラム」のいくつかを、
掲載日に遡ってアップしました。
二極化社会
ライブドア対フジテレビの戦いが一段落した。「アメリカナイズされた新価値観」対「伝統的守旧的価値観」の衝突を、どちらの考えが云々というつもりは毛頭ないが、両極端な価値観の代理戦争であるということだけは言わせてもらおう。
戦後六十年、機会平等ではなく結果平等の民主主義が習い性となった日本人は、平均的かつ中間的な位置に、自らの居心地の良いところを見つけ、極端な個性や独自性の発揮を避けてきた。因みに日本人の平均身長は、同一民族であるため、平均値が最頻値という典型的な正規分布を示す。
しかし、アメリカでは事情が異なる。平均身長百八十センチは決して最頻値ではない。ゲルマン系の百九十センチを中心とする集団とアジア系の百七十センチを中心とする集団に二極化して平均が百八十センチとなっている。
肉体的平均の意味が日本とは異なる多民族社会では、個性と独自性発揮にこそ、居心地の良い位置を見つける価値観が当り前なのは自然の理とも言えよう。換言すれば二極の社会は当然なのかもしれない。結果としての貧富の差もしかりであろう。
筆者は、アメリカ流通業セミナーに参加した十数年前、現地の普通の生活者の家庭を訪問した。普通の家庭でプール付き、メイド付には驚嘆した。一方、ダウンタウンにはホームレスが溢れていた。その時、心底思ったことは、力のある者はアメリカに生まれた方が幸せかもしれないが、平均的な力しかない自分は日本に生まれて本当によかったということであった。
それから十数年、日本も、確実に二極化への道を走り始めた。
東京と地方の活力の格差、企業業績における勝ち組と負け組の差、新聞発表の各社のボーナスの平均も意味が薄れた。
この二極化がどの程度の段階で止まるのかは分からない。ただ、変えるべきことを変えずに、変えてはならないことを変えてしまっていると感じ、近い将来の精神的ホームレスへの危惧を抱くのは筆者だけだろうか。
「降る雨や昭和は遠くなりにけり。」
ピンチはチャンス
元旦の日経新聞の記事を見て愕然とした。徳島県木沢村では昨年一年間に子供がひとりも生まれなかったらしい。少子高齢社会の到来は認識していたが、県内自治体で現実に出生ゼロが起こったことにショックを禁じえなかった。
また、筆者は忘年会で夜の繁華街に出る際、早めに出かけて周辺商店街等での街角ウオッチングを習慣にしているのだが、昨年末には、筆者が徳島の夜の街にデビューした頃(僅か二十年前)に比べて、歩いている人の数が半分以下に減ってしまったと感じた。
これは不況の影響もさることながら、その頃、酒席で大活躍していた世代の高齢化による出没頻度低下、その後継世代の価値観変化による旧来の繁華街での絶対数減少という人口問題の影響が大きいと思う(実際、30代以下の人の多くは、スナックやラウンジで飲むのを楽しいとは感じていないらしい。)。
これは若者が減り、老人ばかりが増える近未来社会の先行指標とも言えよう。某調査によれば二十五年後、県人口は十七パーセント減の六十八万人になり、その内の生産年齢人口は、現在の六十三パーセントから五十七パーセントにまで落ち込む。
この予測は、労働力不足のみならず、徳島の個人消費を確実に縮小させることをも意味する。筆者の属している食品業界から見れば、徳島県市場は、胃袋の絶対数は減り、しかも高齢化で胃袋のキャパシティも小さくなるという二重苦市場と予測されるのである。
しかし、経営戦略の本質が環境適合であることを考えれば、この変化は、新たな市場機会の誕生かもしれない。
それは、量的価値から質的価値への転換である。トヨタ自動車は、人口構成の変化に対して「小さな高級車開発」との社長号令をかけたという。
食品で言えば、「従来品よりも確実に美味しく、トレサビリティも安心、健康にもプラス、そして量目は少なめ、でも価格はちょっぴり高めかもしれない」、こんな類の商品のニーズが確実に高まるように感じる。
考え方を変えれば、環境変化は大きなチャンスの到来でもある。新年にあたり、ピンチはチャンスとポジティブに捉えたいものである。
情報化とリーダー
複数のIT企業がプロ野球経営に名乗りをあげた。従来、球団経営は、鉄道会社か新聞社と相場が決まっていた。そんな伝統的大企業に、新興のIT企業が伍しだしたことには驚嘆した。
逆に言えば、それほど情報という無形のものが、昔より価値を持つ時代になったという証左であろう。
かつて、軍隊、企業等、戦う組織では、情報を、第一に早く得ること、第二に多く得ることが、勝つための必要条件であった時代が存在した。
しかし、現在は、誰にでも、地球の裏側で起こったことが、瞬時にわかるし、インターネットで、かなり多くの情報量を得ることが可能である。つまり、早く得ること、多く得ることというアドバンテージは小さくなってしまった。
それでは、情報に関して何が勝つためのアドバンテージとなったのであろうか。
それは、情報を得たリーダーの整理能力と判断力であろう。情報量に関して言えば、今の時代、多すぎて困るくらいである。その中には正確な情報のみならず、ジャンク情報も混在する。
その中から正確かつ必要な情報を選択すること、そして判断すること、これこそが今の時代のアドバンテージであろう。
一時代前、コンピュータが普及した頃、リーダー不要論が喧伝された。情報は全てコンピュータに入力、記憶、計算されるのだから、判断もしてもらえるはずだ、という論理である。誰の目にも白黒はっきりしていること、単純にパターン化できる情報については確かにリーダーはいなくても大丈夫であろう。
だが、高い次元の判断においては、白黒はっきりしない情報の方が圧倒的に多い。こちらが百パーセント正解などということばかりなら楽なのだが、殆どは四分六、五分五分で、機械的に判断できることなど皆無に等しい。その上に圧倒的な情報量が存在する。
その意味で、判断をし、意思決定することを職務とするリーダーには、情報化の進展によって、皮肉なことに、昔のリーダー以上の能力が求められるようになったと言えよう。
経営者の一次機能
克服できないデフレ経済の影響下、廉価商品が売上を伸ばしていることは容易に理解できるが、高価格であっても本物と言われる商品も確実に売上を伸ばしているらしい。
では一体、何をもって本物というのであろうか。
商品にはいろいろな機能がついており、それを商品の成立過程の古い順に、一次機能、二次機能、三次機能と呼ぶ。例えば、食品においては、広義の定義では、一次機能は生命維持のための栄養的価値、二次機能はおいしさ等の感覚機能、三次機能は健康の維持増進への貢献機能である。
もっとわかり易くするために狭義の定義で類推すれば、例えば自動車ならば、一次機能は「走り・曲がり・止まり」、二次機能は「車内の快適性」、三次機能は「カラー・スタイル」といったところであろうか。
このうち、一次機能さえ圧倒的に優れ秀逸であれば、二次、三次機能ではライバルとの差別化が出来ていなくても、これを本物と呼ぶことは可能であろう。逆に二次、三次機能がいかに優れていようとも、肝心の一次機能が平凡ならば、これを本物とは、おそらく誰も言うまい。
つまり、その商品の最も本質にして基盤となる価値、換言すれば存在価値が優れていることが本物の必要条件であろう。その上に二次、三次機能までもが秀逸であれば、これは正真正銘の本物であろう。
過日、某落語家の寄席ではなく、講演会を聴く機会があった。開会までの待ち時間に、知り合いの経営者数人で談笑した。「落語家なのだから話は面白くて当然だろうね。面白くなければ洒落にもならないね。」
「話の面白くない落語家なんて、センスの悪いデザイナー、歌の下手な歌手、力の弱い相撲取り、文章の下手な作家、頭の悪い学者みたいなもので、いくら人柄が良くたって、価値ゼロだよ。」「それは言いえて妙だね。ワッハハ。」と結構、盛り上がっていた。
その時、誰かが何気なく言った。「儲けられない経営者っていうのも価値無しかなあ?」。一瞬凍りつき、かなり重い空気が流れた。お後がよろしいようで
