受験シーズンが到来。交通手段が天候に左右されるため、天気が気になる方もいらっしゃるかと思います。
さて、作品展のご紹介です。
可愛いお嬢様へのお茶碗とプレート。そしてご家族用のお箸置き。
愛情がこもっているので、美味しいお料理にプラスされますね。
最近 子供が通う学校や、通わせたい学校の建学の精神や歴史を知るにつけ、色々なことを感じます。
そういうわけで故郷の松下村塾の話を少し・・・。
後世あまりにも有名になった松下村塾での活動期間は2年半であるが、実質1年に過ぎなかった。しかし、松陰と門人の関係は年月の長短にかかわらず不朽であった。その短い期間で、あれだけの成果をあげたのは、極めて精神性の高い内容による。教育は質であり、志の高さを教える、というより共有しようとした、その熱意であろう。
松下村塾の教育は身分を問題にしなかった。誰でも入学できた。
松陰は優しい人で、少年に対しても敬語を使って「あなた」と呼んだ。入門希望者にも「自分は師になり得ない人間であるが、兄弟になったつもりで一緒に勉強しよう」と言っている。
門人には晋作や玄瑞のような武士もいれば、山県小輔(のち有朋)や伊藤利助(のち博文)のような足軽・中間もいた。商人や農民、さらには町の不良まで一緒に勉強した。今に残る松陰の肖像を画いた松浦亀太郎は魚屋の子である。
月謝も会費なし。費用はすべて松陰もちである。ときどき杉家から茶菓が出される。これは松陰の持論である「教育無報酬」の持論である。
塾の風景を品川弥二郎の場合で見てみよう。
弥二郎は14歳で入門。足軽でも最も卑しいとされる首切りの検段をする家の次男である。
「人を助ける人間になりたい」と入門の理由を述べた。家は極めて貧しく、門人が3文ずつ出し合うことになったとき、弥二郎にはそれが出せなかったほどであった。
学問の出来もよくなかったが、正直で明るい子であった。松陰はその美点を愛した。「少年中希(まれ)にみる男子、弥二は人物を以って勝る」と評し、可愛がった。
門人の手で塾を解体、組み立てを行っている際、壁を塗っていた弥二郎が誤って下にいた松陰の顔に壁土を落とした。「師の顔に泥をぬるか」とのちにまで笑い話にした。
この弥二郎、維新後 ドイツ・イギリスにも留学。子爵・内務大臣となる。
「奮発震動の象(しるし)あり 防長教育史の人びと 著 松野 浩二」
彼はこの後、民間の獨逸学協会学校(現 獨協学園)や旧制京華中学校(現 京華学園)を立ち上げているので、驚きです。
教育にお金がかかる時代。いえ、かけなくては教育が満足に受けれない いびつな時代に突入しています。
このような人たちのことを知ると、ある意味昔のほうが恵まれていたのかもしれませんね。
私もポーセラーツやプリザーブドフラワーのお教室をしていますが、これからも皆さんと楽しく学び、素敵な作品作りをご一緒にしていきたいと思います。
今日も一日頑張ります。

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