車の中から見る日光の山々は、雪が積もり本当に綺麗でした。
さて、作品展の続きです。
こちらはインストラクターのコースのかた。もう少しでご卒業になります。
かなり詰めてレッスンにお通いいただいたので、あともう踏ん張りですね。

綺麗な日光の山を見ながら、宮沢賢治の「なめとこ山の熊」の話を思い出しました。
生活をするために熊を狩る事しかできない小十郎と、熊もその摂理に従うことしかできないということがわかっていた。食うか食われるかというある意味対等な関係であった小十郎と熊。
しかし、町にでると、二束三文の安値で荒物屋の旦那に買いたたかれる一方的な搾取。
こんないやなずるい奴らは世界がだんだん進歩するとひとりで消えてなくなっていく。
僕はしばらくの間でもあんな立派な小十郎が二度とつらを見たくないようないやなやつにうまくやられることを書いたのが実にしゃくにさわってたまらない。
賢治の気持ちがよく表現されているようです。
哲学者の滝沢克己さん(宇都宮市生まれ、昭和12年山口高商に講師として赴任)がお孫さんへ書いたという手紙からの引用です。
人間は主人ではありません。主体(神)によって生きることが許されているのですから、動物と少しも変わりません。すべての物は神の愛の中で深く繋がっています。
しかし、神のお造りになった物でも、石ころよりも植物の方が、植物よりも動物の方が、動物よりも人間の方が、生命そのものをより明かに表現していることは疑いのないことです。この世の中は人間を中心にして、それぞれがその役割を果たすことによって成り立っています。
動植物を食べることが許されているとしても、自分たちのお金儲けのために植物の本性を破壊する農薬を使ったり、卵を安く作る為に鶏を機械のように扱うことは、自分たちの生命の大事な助けを失って、底なしの滅びの淵に落ちてしまうということです。
また、一切の動植物を食べないと思い込むのも、人間がそれ自身では生きていけないという被造物の一つに過ぎないという根本的なことをわすれた思いあがりです。
このことについて宮沢賢治の「なめとこ山の熊」という童話は本当に感動的です。是非読んでみるといいですよ。
「なめとこ山の熊」 すぐに読めます。
今日も穏やかな一日に感謝です。
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